ゲルマニッシェ ハイルクンデ®への導入

リュケ・ゲーアド・ハーマー医学博士

 ゲルマニッシェ ハイルクンデと動物たち

動物には、彼の葛藤を認識でき、また将来この葛藤を避けるようにと彼に助言を与えられる救護者がいない。動物は通常彼の葛藤が実際に解決するまで、乗り切らなければならないか、あるいはその解決されない葛藤やがんで死ぬかである。我々はすでに、自然界ではいわゆる「がんの病」が、制御不能になって気違いのようにふるまう細胞という、自然の間違いではなく、自然の総合計画の中で不可欠な瞬間を包括する、ある大変意味深い経過であることを理解した。我々人間においてはただ大変注意深く思い起こさせるべきことではあるが、我々は動物において、外部から来る、つまりそれぞれの種のために、自然界では用意されていない葛藤の克服のための援助が、質にかかる長所としてではなく、せいぜい数量的なプラスとして働き、そのため質的には短所として顕われることを観察する。人間において種として観察したとしても、それは全く同様である。

しかし我々は人間からまだ操作されていない自然を眺めると、我々はそこに、動物たちがDHS に襲われて葛藤に陥り、それによって彼らの がんを実際に解消しなくてはならないことを観察する。1頭のあるいは多くの若い個体の喪失や、縄張りの喪失は、動物たちにとって「心理治療師的に 」ではなく、ただ実際に解決するべきものである!それでも我々は、高度に発達した動物たちではまたすでに葛藤の克服における祭礼のようなものを見受ける。良く知られている象の埋葬儀式を考えただけでも、明らかに特に関係した動物たちのために、あるいは群れ全体に、喪失の葛藤を弱くさせたり解決するための試みである!我々人間は葬儀の際に何か他のことをするだろうか?象たちは彼らがまず埋葬し、木の枝ややぶで覆った、亡くなった仲間の回りに何日もの間集まり、そして彼について悲しむ。

このより高度に発達した哺乳動物の「祭礼的な助け」を除けば、動物は一般に彼のがんの病を自分で乗り切らなければならず、それは定期的な品質検査の何倍も、あるいは規則的な間隔で受からなければならない適性検査であり、合格しない場合はその個体は「適合除外」とされる。

例えば年老いた鹿は、毎年新たに若い鹿に対して適性検査に立ち向かわねばならず、またいつか彼はその適性検査にもはや合格せず、その際彼は死ななくてはならない。

そのため一般に生物学的な葛藤の「治療」は現実的な葛藤の解決である。この現実的な解決が元通りの状態の再構築であるか、あるいは生き残り可能な選択的解決策となる。例えば年老いた鹿が彼の縄張りを取り返すか、あるいは彼は他の鹿をその縄張りから追い出す。仔犬を失った雌犬であれば、泥棒を捕まえて仔犬を再び取り戻すか、あるいは残された他の仔犬で自らを慰めるか、あるいは再びすばやく子を孕む-そして、おそらくそれが大多数の場合であろう。子を孕んでいる間、一般的に葛藤沈静の状態にあり、つまり妊娠期間の最初の3分の1は基本的に迷走神経系で経過するため、葛藤の活発な状態が不可能であり、また新たな仔犬の出産の後は、葛藤は自動的に解決されるであろう。

動物たちは、我々人間とは異なり、通常彼らの自然のリズムで生きているため、この自然のリズムにおいては動物の子供の喪失は広くすでに、例えば「通常」のこととして計算に入れられており、またそのような後続の新たな妊娠による「通常の葛藤」の解決も同様である。

我々人間は、どこかの宗教創始者あるいは社会改革者が我々に定めた広範な抑圧に屈服させられていることを、それらはしかし生物学とはほとんど何も関係がないということを忘れてはならない。そのようにまた人が普通の人と呼べるような社会改革者がこれまでほとんどいない。知恵とは、人が与えられた脳のコードとできる限り調和し、またそれによってそのコードに精神あるいは心も調和して生きるべきということを基礎に置くとすれば、彼らは知恵とは程遠い人類にとっての重荷であった。

私にとって最も賢い人とは、戦争の倒錯において人間の命の抹殺を現実のものとさせるのではなく、我々がどうすれば自然から我々に与えられたコード との調和の中で生きられるのかを、我々人類に教えてくれるような人である。

我々が、人間と(哺乳)動物が同じ形で がんを病むと言うとき、その際多くの人々がそのがんは器官において同様あるいは比較可能であるとして同意する。人間におけるのと相応の場所にある、脳内のハーマーの病巣は、同様に同じあるいは比較可能である。しかしこの両方のレベルで同様あるいは比較可能であるとき、その際また精神的なレベルも同様あるいは比較可能、少なくとも比較可能であると言える可能性が高い。私が動物が葛藤に苛まれたと主張した時、それをもって私は生物学的な葛藤を意味したが、その際ほとんどがまだ受け入れられるだろう。私が動物が人間のように食欲がない、人間のようによく眠れず、人間のように交感神経系であると言うとき、それはまだぎりぎり受け入れられるが、しかし私が動物が同様に昼も夜も彼の生物学的な葛藤について考え、また夜彼の葛藤について夢を見ると言うとき、その際憤激と拒絶が巻き起こる。それは、人間にのみ留保されている思考の特質であると、そのように人は考える。しかしそれは正しくない。その葛藤は人間と動物に同様に、つまりすべての3つのレベルにおいて経過するのである。君たちはまだ一度も自分たちの犬が睡眠中(夢)にため息をついているのを聞いたことがないのかね?

 我々のうちの多くの人々にとって、特に宗教的あるいは世界観的に固執している人々には、それを是認することは難しい問題である。私にとってそれは世界で最も普通の事である。つまりその内容、例えばその動物にとっての餌に関する嫉妬の葛藤は、その種に応じて、人間とはほんの少し異なった形であるが、しかし人間におけるそれらの葛藤は、ただ転化されているのである。しかしまたその人間の転化された生物学的な葛藤は、常にその考古学的な基本パターンへと帰結するのである。

著作権はリュケ・ゲーアド・ハーマー医学博士に帰する

翻訳:日本語作業チーム