リュケ・ゲーアド・ハーマー医学博士によるゲルマニッシェ ハイルクンデの知識に即した

意味深い生物学的な特別プログラムの

様々な統括

ティニトゥス、耳鳴り - 活発な聴覚の葛藤

すでにいつの時代にも人間は精神的な葛藤や感情と、人生における深刻な経験や動揺との間に、相関関係があるのではないかということを感じ取っていた。それについて我らのドイツ語の中にも数え切れないほどの言い回しや表現が、生物学的なショックの経験、DHS(ディルク・ハーマー症候群)を言い当てる雄弁な証拠として存在する;例えば彼の耳を信じることができない、あるいは「それは今でもまだ耳の中で鳴り続けている」などである。

DHSはゲルマニッシェ ハイルクンデの基礎であり、すべてのいわゆる「病気」-実際には意味深い生物学的な自然の特別プログラム-の始まりである。すべての「意味深いがんあるいはがんと等価の特別プログラム」はDHSを伴って、つまり最も重篤で、大変激烈でドラマチックな、また孤独な状態で起きる葛藤の経験のショックで、同時にあるいはほぼ同時にすべて3つのレベル:精神 、そして器官において発生するものである。

それは葛藤の内容と、脳内のハーマーの病巣(HH)(いわゆる弓矢の的の形成)の位置と、そしてまた器官の細胞増殖、壊疽あるいは様々な変化の位置を決定する。それは上位に決定されたシステムであり、すなわち一つのレベルを知れば、その他を類推し見つけ出すことができる。

医学全体のすべてのいわゆる病気は、それが葛藤の解決を見た場合2相性で経過し、すなわちDHSの時点からの葛藤が活発な、冷たい、交感神経系の相(ca-相)と、葛藤が解決した、あるいは治癒の相(pcl-相)である。

さて、我々は胎児の発達において、胎児の発達の最も早い時期からすでに形成され、またそこからすべての器官が派生する、3つの様々な子葉を認識している。

  • 内側の子葉(内胚葉)、
  • 中間の子葉(中胚葉)、そして
  • 外側の子葉(外胚葉)である。

身体のすべての器官はただこれらの子葉のうちの一つに分類できるだけではなく、これらのそれぞれの子葉には、発展の歴史に条件づけられて、特別な脳の部位(脳幹、小脳、大脳)、定められた葛藤の種類、定められた脳内の位置、明確に定められた病理組織、子葉に親類となっている特有の細菌、そしてその上さらに、ある特別な生物学的な意味が属している。   

ティニトゥスは、外側の子葉の大脳皮質から司られている器官に属している。それはつまり、ここでも きき手が役割を担っていることを意味する。何故なら左ききと右ききは脳から、つまり小脳から始まるからである。小脳からは、すべてどちら側かということが定義付けされている。脳幹においてきき手は実際まだ役割を持たない。すべての人間は右ききか左ききである。

左ききは常に、手叩きテスト(拍手)の際、左の手が上になっている人である。左ききは例えば葛藤を脳の反対側に置くのであり、また小脳と大脳の右半分はおおむね体の左半分を受け持ち、また小脳と大脳の左半分は体の右半分を受け持っている。

大脳皮質の葛藤においては特に、男性のパートナー/女性のパートナー-母の側、あるいは男性のパートナー/女性のパートナー-子供の側(注意:分りやすく書けば:パートナーあるいは母/子の側)、と縄張りの範囲において異なった秩序を持つ脳内リレーとを区別しなければならない。

しかしながらティニトゥスにおいては、右ききの人の左の耳は、聴覚の葛藤がまた縄張りの範囲の葛藤にも数えられるため、「母/子の耳」あるいは「父/子の耳」であるとは限らず、それは例えば人が縄張りのライバルの声を聴く、しかし彼の耳を信じることができない場合である(鹿がライバルの交尾期の声を聞く)。

ティニトゥスあるいは脳内の聴覚リレーは、縄張りの葛藤のリレーのすぐ下部(脚部)、(島部分付近)に位置している。そのため我々はそれを「半分縄張りの葛藤」、あるいは選択的縄張りの葛藤というように名付ける。そこにはしばしばさらにある良好な副作用があるが、それはティニトゥスの際、葛藤が活発な時期には、右ききの人の左の耳が右側の脳の縄張りの葛藤を病むことがない、ということである。しかし全く同様に、聴覚の葛藤は選択的にきき手に対応しており、子供/母あるいはパートナーのためという場合もある。

ティニトゥスは常に活発な聴覚の葛藤に原因があり、人が何かを聞きたくなかったという場合である。

葛藤の内容「私は耳を疑った、私が聞いたようなことは、そんなことがあり得るはずがない」。

患者はDHSの時点からティニトゥスがあり、右のあるいは左の耳に、雑音、ブザー音、呼び鈴音、笛の音そしてまた言葉であれば人声を聞くが、これはとりわけ彼が両側の耳に、ある「話言葉のティニトゥス」をもっている場合のみである。

それに属する ハーマーの病巣は、中央左側あるいは中央右側の頭蓋腔、側頭葉部分の皮質に有り、それに属するティニトゥスのリレーに相応している。2重のティニトゥスにおいては、つまり患者が両側の耳に同時に一つのティニトゥスを持つ場合、彼はただ耐えきれないほどの騒音への敏感性を病むばかりでなく、彼はまたいわゆる精神分裂的な脳内配置であり、声を聞く状態を伴う場合と、伴わない場合がある。

例:ある職業軍人が、結婚の直前にあったが、分譲マンションを購入しようと思いそのために彼の口座から15万ドイツマルクを現金で引き出した。彼はその金額を契約締結までの間お金を預かってくれるという、彼の花嫁の「信頼できる手」に渡した。しかしながら売買契約を結ぼうとしたとき、激しい諍いが起こった。彼の花嫁は彼の職場に電話をかけてきて、婚約解消を告げただけでなく、また患者が15万ドイツマルクを彼女にプレゼントしたのだと主張し出した。その際患者は2重の聴覚の葛藤「私が聞いたことは、本当であるはずがない。」という激しいDHSに見舞われた。

2時間後、彼は射撃練習に行かなくてはならなかった。

彼は普段通り耳保護具を付けずに射撃していたが、このときは全く別で、それは偶然にある同僚が彼のまだ罹患していない耳(DHS)の極くすぐ脇で射撃したためで、そして彼は射撃をいや増して我慢できないほどうるさいと感じたのである。

射撃練習の後彼は何重ものティニトゥスを病み、つまり彼はそのときから特別な精神分裂的な脳内配置に陥った。そのティニトゥスは彼を大変「気の狂った」ようにさせたため、彼がすべての騒音に対してアレルギー反応を示しただけでなく、常に彼の前の花嫁の声を聞くほどであった。そのような患者は我々が「精神障害」と呼ぶ状態を病む。

「Vox」とは声の事であり、また次のことを意味する:患者はいくつもの声を聞く。例えばある決まったフレーズなどの「声を聞く幻聴」で、現代医学においては妄想性精神分裂症を意味する。哀れな患者さんたちはそれによって常に精神的な死刑宣告が診断として記録され、何故なら一度精神分裂-生涯精神分裂だからである。すなわち、患者さんたちは人生の終わりまで破滅させられ、精神病院行きの症例となってしまい、それはこの診断を人生の終わりまで振りほどくことができなかったためである。一度気違い-生涯気違いである!

声聞きの人たちのほとんどは害のない妄想症患者であるが、しかしその精神分裂的な脳内配置がまた、例えばさらなる凶暴な生物学的躁状態の脳内配置を伴って組み合わされている。とりわけその場合患者は声と、またその声が彼らに与える命令を固く信じているため、無害ではない。多くの信心深い狂信者たちは「声聞きの人々」である。また我々が夢の中で声を聞く場合、我々は短期的な再発に罹っており、例えばあるひっかかった聴覚の葛藤(いわゆる土手の状態)の場合である。そのような再発はしかし、ほとんどの場合罹った人が目覚めたときに直ちにそれに気づくため、大変短期的なものである:夢だったんだ!

ゲルマニッシェ ハイルクンデにおいては、これまでの理解における特定症状あるいは特性としての精神分裂は存在しない。ただある精神分裂的な脳内配置があるだけであり、つまりある葛藤が活発な状態が様々な脳半球に存在する同時性であり、またそれは基本的に一過性のもので、またいつでも解決可能なものである。両方の葛藤のうちの一つを解決しただけで、患者は再び「正常」になる。つまり患者が「声を聞く」場合、彼は常にそのような精神分裂的な脳内配置にあるのである。

声聞きはニ重のあるいは三重のティニトゥスに他ならないが、ただ、一つかニつのティニトゥスの代わりに一つか二つの声を常に、あるいはよりしばしば聞くということである。それは常に彼が聴覚の葛藤のDHSの際、彼が耳を疑った時に聞いた、その声あるいは騒音が問題になっているのである。その音響的なDHSの騒音が爆発音、激突音、雑音、ブザー音あるいはエンジン音だった場合、その際彼はその音を聞く。

DHSはしかし、ただ生物学的な葛藤の葛藤内容を定めるだけでなく、またそれに追随する葛藤がさらにこの線路の上を走って行く。線路はDHSの瞬間における追加的な葛藤の観点、あるいは追加的な感じ方である。患者が後にあるそのような線路アレルギー)に陥ると、その際そこから葛藤全体の再発に帰結するおそれがある。しかしすべての葛藤の再発は、ひっそりとやって来るのではなく、ただ新たなDHSと共にやってくる。自明のことながら、再発のDHSは、我々を再び葛藤の線路に乗せるために、最初のときのような感情的な強さを全く必要としない。それはまたある「強い回想」と呼べるものである。

例: ある患者は夜間にアウトバーンを走行していて、運転しながら眠ってしまった。彼は速度が時速100㎞以下に下がった時、0.5㎞間を目を閉じて時速120㎞で走っていたに違いない。

エンジン音が変わったことから彼ははっとして目覚めた。彼は左の耳のティニトゥスを伴うDHSに襲われた。おそらくそれが彼の命を救ったのであろう。その時から彼はティニトゥスがその上を走るニ重の線路に罹患した:その後彼は、疲れて運転しているときに、また車の速度が時速120㎞より下がった場合、そして彼が朝目覚めたときに、常にティニトゥスに襲われた。後に彼は、ただある特定のエンジン音を発する車が速度を落としただけでティニトゥスに襲われた。患者が長い間(1年間)車で走ることができなくなった時、彼は全くティニトゥスに襲われなくなった。

例: 別の患者は税務局の役人が税金審査の後、彼に最終的に示した時に聴覚の葛藤に襲われた:「あなたは10万ドイツマルクを後納しなければなりません」。患者は耳を疑った:「そんなことが本当であるはずがない、私の聞き違いだ!」将来的に再び何か税務署と関連のあるできごとが持ち上がれば、患者は古い線路に乗ってまた直ちに再びティニトゥスに襲われた。

その事象の生物学的な意味は、明らかにca-相に見出される。それは警告機能に有り、つまりある音響的な情報と一緒になった危険への警告である。ティニトゥスが我々の邪魔をしてくるとき、常に重要なことは、それに関して我々が、それが意味深い生物学的な特別プログラムの一部であり、つまり常にある警告であると考えることである:「気を付けろ、このエンジン音のときにお前はいつか眠り込みそうになった、あるいは眠っていただろう!「気を付けろ、眠らないように、すぐに目を覚まさなくては、車の速度が下がっているぞ」

それは我々がティニトゥスを「治療で除去」しなければならない「病気の症状」として見るべきではなく、警告されなければならないのは、ほぼ必要不可欠なこととして、原因を取り除くよう試みなくてはならないことを意味する。そのため、常にできる限り直ちに(ティニトゥスの開始時に)DHSを見つけ出し、そして葛藤を決定的に解決することが重要である。

さてしかし患者が継続的なティニトゥスに、またすでに長年に渡り罹っている場合、その際我々はひっかかった葛藤であるという。その際、生物学的な葛藤は継続的に活発ではあるが、しかしながら下位に転換された状態であると考えられる。当然患者はそのような葛藤と共に大変長生きできるものである。

葛藤の量は常に、葛藤の強さと葛藤の期間からの生成物として計算され得る。しかしまたそのために用意された、ほとんど葛藤の量が蓄積されないような自然現象がある:それは、いわゆる精神分裂的な脳内配置である。精神分裂的な脳内配置にある患者は、15年間両側の活発なひっかかった葛藤を持つことができ、一つの葛藤の解決において、例えば冠状-心筋梗塞を生き延びる。しかしながら単体の縄張りの葛藤が平均的な葛藤の強さで9か月以上、あるいは大変強い葛藤の強さで6ケ月継続した場合、その適時に発見されなかった心筋梗塞は死に至る、という経過をたどる。ところで古い脳に司られている葛藤では、葛藤の量は常に腫瘍の大きさに対して正比例の関係である。

ティニトゥスの治療はまず第一に、どのDHSにおいて患者が聴覚の葛藤に襲われたのかということを発見することに存する。そこで初めて人は患者と共に解決の可能性を検討することができる。その際葛藤が解決されたのであれば、患者に彼が治癒相にあり、ともかくも治癒相の期間中、相応の周波数をもはや聞くことがないと知らせることが重要である。人はそれを「突発性難聴」(該当する周波数についての一過性の聴覚喪失)と呼ぶ。

これまでの現代医学的な治療は、患者に点滴をすることにあった。人がそもそもするべきことと正反対のことであるが、何故なら葛藤の解決の始まりを持って治癒相の兆候として、ハーマーの病巣は水腫になり、つまり脳は膨張し、そしてその際、追加的な点滴がほとんど氾濫状態にさせ、これが追加的に治癒相をさらに人工的に長期化させるためである。また器官としてのリレー全体が過剰に膨張する。通常またここでは、葛藤がそれだけ長く継続した期間(症候群の際、より強度の聴覚喪失)、治癒相がその分長期化するという規則が当てはまる。

この治癒相がしばしば再発で中断されることは、当然それほど稀なことではなく、つまり患者はその際合間合間に何度も何度もティニトゥスに罹っている。しかしそれが小さな再発である場合、患者はまた小さな突発性難聴に罹るが、それはほとんど悲劇的でない程度のものである。とりわけ最後に突発性難聴を伴う頻度の高い再発は、のう胞形成を伴う脳内組織の引き裂きにつながるおそれがある。そのような突発性難聴はしばしば何年も継続することさえあり、いわゆる難聴(「ひっかかった治癒」)で、人が一時的に補聴器を使用する可能性がある。そのため、できる限りDHSを直ちに発見すること、そして葛藤を決定的に解決することが大変重要である。

注:天才的な作曲家ルートヴィヒ・ファン・ベートーベンがどのように難聴になったかの、情報に富んだ分析、「小さな、また大きな聴覚の脳内配置」についての詳細説明を含む、「Die Archaischen Melodien®、考古学的なメロディー(仮称)」の書籍中-135ページからの「我らの偉大な作曲家の人間的な側面」を参照の事。

生物学的な生態行動様式と葛藤に非常に近く寄り添い、方向付けされたゲルマニッシェ ハイルクンデは、全く新しい尺度を定める。それは生物学的に方向づけされているため、全く非人間的でなく、反対にこの魂の無い医学を一掃するものである。それはまず、我々有機体の中ですべてが一つの最新のコンピュータのように作動することが認識されるが、ただプログラムの中にまたその他の動物と植物の大部分まで包括しているため、さらにずっと雄大である。

医学全体はこれまで、ただ対症療法的にのみ設定されていた。病気とは器官の病気であり、真に器官の症状的に治療するべきものであった。それは我々の魂のない現代医学へと導き、そこでは精神はただ邪魔する存在として作用していた。すべては点滴や毒物、化学療法あるいはメスによって処理された。

精神は「非科学的」という位置づけであった。それはただ「頭のおかしなやつ」のためのものであった。血清パラメータ、レントゲン撮影及び器官のCT写真が「事実データ」として尊重された。すべて我々の有機体がそこから制御されている精神と脳は、全体的に興味を持たれていなかった。

それでも大変簡単なことは、我々の有機体が現代の機械と全く同様に機能することである:精神はプログラマー、脳はコンピュータ、そして身体は機械である。だがそのシステムはまだずっと魅惑的に構築されており、何故ならコンピュータは自身でプログラマーとしての精神を作り上げ、精神はさらに自身でコンピュータをプログラミングするからである。

我々の脳が我々有機体のコンピュータであるとき、その際それはまたすべてに対してである。この有機体の多くの行程が「コンピュータを素通りして」経過すると想像しても意味をなさない。そのため医学全体は根本的に変わらなくてはならない!そもそも脳が我々有機体のコンピュータとして、またすべてのいわゆる病気について担当しているかもしれないと、何故誰も一度もその考えに至らなかったのかは、奇妙なことである。

著作権はリュケ・ゲーアド・ハーマー博士に帰する

翻訳: 日本語作業チーム