1990年~2000年:  

ゲルマニッシェ ハイルクンデと歩む人生の始まり

どこから始めましょう…?

前述のように私のゲルマニッシェ ハイルクンデ®との関わりは1990年に始まります。当時私はすでに9年間ウィーンに住んでいました…ハーマー博士の発見はこの時点で、偶然にも9年前でした。

私が教育者としての立場から、若い父親に「白血病で亡くなった」彼の10歳の息子の死に接してお悔みを述べたとき、彼は「ドイツから来たがんの治療にたけているという医者ですら、すでに何もできませんでした…遅すぎたのです。」という言葉を付け加えました。 

私は当時(ほとんどの人がそうであるように)私自身、支配的なシステムに対する「忠実な生徒」の一人だったため、今日の学校医学の支配的、システム的な、「がんは悪性の、死に至る病気」であるというマントラを信じていたことを付け加えておかなくてはなりません。

その頃、ましてやウィーンの小児病院に寄付をして支援を行っていたし、他でもない私の寄付したお金が、化学療法に使われ、これらの子供たちに投薬されていたのです。私自身、自分もまた常に遺伝的な原因から「がんに罹る」危険があると固く信じていたため、定期的に検査を受けていました。

祖母の例外を除けば、私の家族と親戚全員、「がんの診断をもって死に至って」いました。当時私は、次には私も同じことになると、確信していたほどです…とうとう、その頃は私が自分の世代で最年長になっていたのです。

この早すぎる息子の死によって、ことごとく力を落としていた若い男性から、彼が話していた医師はハーマー博士という名前であると知りました。そして、おそらくそれで私のこのテーマに対する興味は尽きてしまったようです。しかし、運命はまだ何かほかのことを私に用意していました。この会話のしばらく後に、1992年11月24日、オーストリアのテレビ「クラブ2」(当時はまだ生放送でした)で、夜の大変遅い時刻に(今になれば何故かがわかります:それによってできるだけ少ない視聴者しか、この放送を見ないようにです)私はがんについての討議を傾聴する機会を得て…招かれたゲストの中にハーマー博士が居ました。

この放送を見ているうち、討議に参加している医療の「専門家」がハーマー博士を常に遮り続けていたため、私は次第にいら立ち、怒りを覚えました…私は、ハーマー博士が言ったことを理解できませんでした。しかし、彼が話した短い部分だけで圧倒され、途端に興味を持ったのです。 

 

1992年11月24日に放送されたオーストリアテレビのClub2で

ハーマー博士はしばしば遮られた.

翌日私は、ハーマー博士の本が購入できるかどうかを知るため、「文字通り羽が生えて飛ぶように」書店へと向かいました。そして私は、実際に見つけたのです!この時点で、ハーマー博士はすでに「Krebs, Krankheit der Seele、がん、魂の病(仮称)」と「Vermächtnis einer neuen Medizin、新しい医学の遺産(仮称)」の2冊の書籍を発表していました。

Widmung von Dr. Hamer im Buch "Krebs, Krankheit der Seele"
「がん、魂の病」の書籍中のハーマー博士の献辞

私がこの本を読んでいる間に、いったい何が私に起こったか、ゲルマニッシェ ハイルクンデ®を知っている人には、話す必要はありません。私は完全にこれらの本のとりこになってしまったのです。

この頃私は仕事に就いており、一日中出かけていました。また、4歳の息子の母親役もこなさなければなりませんでした…それで夜遅く寝る少し前に本を読み….

私は、翌日また決められた時刻に起きられるように、無理に本を閉じるよう自制しなければなりませんでした。一日中、夜家に帰って本の続きが読めるのが待ち遠しくてなりませんでした..、

1993年、私はハーマー博士がウィーンの第15地区の、Haus  der Begegnung(出会いの家)で講演をすると聞きました...

この時点で私が知らなかったことは:この頃ハーマー博士には多くの殺人未遂行為が行われており、しかし彼はまだ自由にヨーロッパ内を動き回ることができていました。しかしながら、秘密の雇われ人が、彼の一挙手一投足を見張っていました。しかし私がすべてを聞いたのは、ハーマー博士と個人的に知り合ってからです。

ハーマー博士の講演は、大きなホールで19時から始まるはずでした…ハーマー博士は大変大きく遅れて到着しました。ホールは聴衆で満員、「すべての縫い目からはみ出した」状態でした。

私は、廊下に席を取りました…この催しは私にとって、一生で最も有意義なできごとの一つになっています。初めてハーマー博士に会えたのです! もちろん、書籍にサインしてもらうのを忘れませんでした。私は、大変大勢の中の一人だったのです…

それは私にとって言葉にできない、圧倒されるできごとでした…また今日でもなお、(このイメージが私の脳裏によみがえるとき)、私は同様の感激に圧倒されます…セミナーの間にハーマー博士は自ら作成したオーバーヘッドプロジェクターのフィルムを用いて発表しました。彼は夜遅くまで講演し続けました…私たちは全員固唾を呑んで聞き入りました…私はハーマー博士の自著へ初めて献辞を入れてもらった、「Krebs, Krankheit der Seele(がん、魂の病)(仮称)」の本を持って家に帰りました。
 

 このメッセージは、ハーマー博士の著作から私に、この時点での彼の発見の段階と私の理解の段階で与えられた言葉で、それは「魂のやすらぎと愛…それが最も重要なことである…」でした。

残念ながら、私の子供の父親は私のゲルマニッシェ ハイルクンデ®への情熱(当時はまだ、「新しい医学」と呼ばれていました)を私と共有しませんでした。私は、彼に馬鹿にされ、攻撃されました…彼にとってそれはただの新興宗教でした…(全く同様にハーマー博士はメディアから無責任に噂されました:魔術治療師、いかさま師、自称教祖云々等々)それらのすべてが真実ではありませんでした。


 そして、1994年。その年は私と私の子供のための新しい人生への解決法探しの年でした…当然、ゲルマニッシェ ハイルクンデ®(当時の新しい医学)と共に生き、そしてこの2冊の本を読みまくれるような。

当然の帰結として、私はまた「インド人」の聖なる書籍バガヴァッド・ギーター、後には新約聖書…またその他様々な精神的神秘主義の本を手にしていました…

その後、私は多くの人々がゲルマニッシェ ハイルクンデ®の知識に触れた後に、そのような内的生命の脱皮状態を経験するのを、しばしば観察できました…

それは、私の人生の内的及び外的な変化の、ある長い過程の出発点でした。


 1995年の夏、私は家族と共にイタリアで休暇中でした。この当時、私はまだ新聞のニュースを追っていました。この時期、私の滞在地に多くの国際的なゲストがあり、また当然その理由から多くの国際的メディアが来ていました…

ある朝私は、両親が子供に化学療法を受けさせたくないと言っている、その女の子、オリビアについての新聞の見出しを見ました…

彼らは、子供と一緒にまずスイスへ逃げ、ハーマー博士に相談し助けを求め、ハーマー博士が一時的に滞在していたスペインに、オリビアと一緒に到着したばかりという時でした。

私はすでに2年間ゲルマニッシェ ハイルクンデ®を勉強していたため、新聞記事の中で、真実に即した内容と、そうでないものについて識別する感性を持っていました。さらには「まやかし、魔術治療師、自称治療者」等々、それらの罵声には、両親が化学療法に従わない場合には、オリビアが死ななくてはならないという判断さえ含まれていました。

彼らの子供にそのような治療の苦しみを味合わせなくて済むよう、両親は娘と一緒にオーストリアから逃れたのです... 

オリビア、母エリカ・ピルハーとハーマー博士と共に1995年夏、スペイン

考えても見てください。すべての新聞には同じことが出ていました…すべての国際的な新聞雑誌が、当時まだ私が知らなかった一つの「上級命令」に従って報道していたかのようにです。

…そして私は、このテーマについて確信していました。私はハーマー博士がどれほど素晴らしい発見をしたか、はっきりと知っていました! しかし新聞にはそれについて一言もありませんでした…

記事の大見出しはすべて同じでした:

- 魔術治療師で死に至った事故のリスト
- 父親が化学療法を拒否: 医師たちはオリビアについて憂慮
- がんに罹っている女の子は両親によってスイスに隠された

 - 治療しなければ、生き残れる可能性はない...
- オリビアの「治療師」は精神病者か?

私は息子とこの時期に約3週間イタリアに滞在しており、その間に私にとって重要な2つの事実に気づきました:

第一に: ハーマー博士に関連するすべての新聞は嘘を書いていることが確認できる。.
第ニに:彼らがこの一つのテーマについて嘘を書いているのであれば、この後私は、彼らがその他のテーマについても同様であることを決して否定できない。私はそのため、今後決して新聞を買って読まないことを決めました…このことを私は1995年に決意しました。そして、それは今でも有効です...
信じてください: 私はそれにより何一つ失ったものがないのです!

この経験により私には、ハーマー博士の発見が現在の支配的なシステムによって推進されることは決してないと、明らかに理解できました。そうして、この知識は人から人へ、この発見の核を理解した人からのみ、伝達され得るものだということがわかったのです。
この時点ですてにドイツ語で書籍が存在しました。ポーランド語では、まだ全くありませんでした。そこで私はハーマー博士の書籍のポーランド語への翻訳を始めることに決めました。自分がどのように対処するか、私がある計画を立てるまで、しばらく時間がかかりました。 
私の家族全員、私のこれについての興味と、より強くなる関わり方について、完全に愚弄しました。彼らの私に対する姿勢は、その当時次第に敵対的になっていきました…
1996年の初め、私はハーマー博士と連絡(彼の電話番号は書籍から見付けました)を取り、彼の書籍をポーランド語に翻訳したいという計画にについて報告し、許可を乞いました。
それで私は彼のケルンの家に招かれたのです。もちろん私のCT写真持参です! 誰でもハーマー博士を訪問する人は全員、CT写真を持っていかなくてはなりませんでした!
私の時間が取れたとき、つまり復活祭の休みに、私の初めてのハーマー博士訪問が実現しました。ハーマー博士自ら駅まで迎えに来て下さり、温かく迎えられました。この機会に、私はハーマー家のその他の人々にも会いました。
この訪問は実り多いものでした。私は、彼の書籍をポーランド語に翻訳する許可を得られただけでなく、博士の死まで続く固い友情が芽生えたからです…
ウィーンに戻ってから、私は仕事に取り掛かりました。それが簡単なことであったとは、私は決して言えません。 

ハーマー博士が、全く新しい用語の使い方を発展させていたことは脇に置いたとしても、私には生理学的プロセスについての知識も、人間の有機体としての解剖学的な構造の知識も、現在行われている医学の医学用語に始まり、またここにおいて、特に症状と病理学的な出現のための関連性、よく行われている治療と診断方法及び多くのその他の事々という、医学の分野からのその他の重要な情報に対する知識が欠けていました。そしてまた診療所で経験を積むことなども、すべて私には全く欠落していました。
幸いなことに私には、必要な理論的、医学的な知識の内容を解説してくれる世界で最良の先生が居ました:ハーマー博士です。
 

***

私自身の経験から、またハーマー博士の親身に相談に乗ってくれる支援を通して、私はゲルマニッシェ ハイルクンデ® のシステムを理解し、他に伝えていくことができるためには、どれだけ生理学的また解剖学的な分野の医学的基礎知識が重要かを知っています。生理学的、解剖学的な分野の、詳細にわたる医学的な知識、またいわゆる病理学的な出現及び臨床的な知識と経験なしで(またこれは私たちの学習プログラムと勉強会を修了した人たちにも当てはまることです)、人間を相手に診断的に、また治療的に仕事を始めることは大変危険です:
彼らは自分が全くそれに対して成長していない大きな責任を負うことになります。その結果はしばしば悲劇的なものです:私はそれについて、ただ緊急事態に陥った、「スペシャリスト」の手に落ちた人々について述べているのみではなく、これらの「スペシャリスト」自身への危険について述べているのです。
それぞれの実例を挙げるまでもなく、このような形で惹起された期待が実現しなかった場合、多くの落胆した人々の目から見てゲルマニッシェ ハイルクンデ® に対する信憑性が疑われることになります。

***

ゲルマニッシェ ハイルクンデ®(当初はまだ「新しい医学」と呼ばれていた)は、この生物学的な身体、精神、脳の中の過程の知識を、ハーマー博士が彼の文章の中で意味付け、またその意味するところを言葉に変換していくためには、さて全く新しい術語を必要としていました。その当時私は15年間ポーランド語を話していなかたったため、結果としてできた私の翻訳は、相応にまずいものでした。そこで私は推敲に推敲を重ねることを始めました。

このときすでにコンピュータを使っていたにも関わらず、当時はそもそもタイプライターの役割を果たしていただけでした。インターネットには、当時はまだ私の仕事に絶対的に必要だった情報が整っていませんでした。

1998年には、私はすでに自分で翻訳したいくつかの文章から、最初のポーランド語の「新しい医学」のホームページを作成し、それはつまりゲルマニッシェ ハイルクンデ®の情報が含まれていましたが、しかしながら、画像表現と文章にはまだ多くの改善点がありました。

私のケルンへの最初の訪問の際すぐに、ハーマー博士は私にウィーンに戻ったらすぐにヘルムート・ピルハーに渡すべき書類を託しました。このようにして私はやはりオーストリアに住んでいたヘルムートと、また後にピルハー家全員と知り合いになったのです。

オリビアの両親としての、支配的なシステムに対する態度(化学療法の拒否と、強制的にこの似非治療をオリビアに受けさせようとする役人からの逃亡)により、ヘルムートはマスコミの誹謗中傷で仕事を失ったばかりではありませんでした。どの会社も彼を雇おうとしなかったため、彼はその他の収入源から4人の未成年の子供たちを養育しなければなりませんでした。

それはピルハー家全員にとって大変厳しいときでしたが、しかしまたハーマー博士の人生でことさら厳しいときでした。オリビアの件についてのマスコミの報道は、その意味で明らかに度を超したものでした。ハーマー博士はまさにマスコミによって処刑されたのです。彼は支配者である「エリート」にとって目の上のたんこぶだったのです…

マスコミからの憎しみに満ちたくだくだしい報道は、その頂点に達しました。誹謗中傷と評判潰しは限界を知りませんでした…

ヘルムートの反撃により、新聞雑誌でオリビアの話は人々の知るところとなり、またそれによって多くの批判的な、支配的なシステムに逆らうような意見が現れました。

支配的な「エリート」たちは、とにかくハーマー博士について何か少しでも良好な情報がマスコミに広まることを防ごうとして、すべて思いつく限りの対抗手段を試みました。彼らは、何としてでもオリビアの病状が「ハーマー博士の手の中で良くなる」ことはさせられなかったのです。ハーマー博士に対するマスコミのキャンペーンは、戦争の終盤戦と同様のありさまでした。

しかし、実際支配者であるエリートにとってハーマー博士が危険になったのは、ラジオのインタビューでエイズという病気はないと言ったとき、そう、そもそもHIVビールスなどというものは全く無いと言ったときからでしょう。それはすでに1995年の時点でのことです!ハーマー博士は私に、何故そのような恐ろしいキャンペーンが自分に対して行われたのか、真の理由はこれであろうと言っていました。この考えは、何があっても決して世間に広まらせてはなならなかったのです。

この頃オリビアはそれまでにあったSBSがpcl-相に切り替わり、さすらいの葛藤の活発な状態が、腎臓柔組織と肝臓腺の迷走神経系の腫れあがりを、何倍も強くさせていました。ハーマー博士の助言に添った、仲介者(オーストリアのマルコヴィチ博士との会話)の課題は、両親がオーストリアに戻るよう動くというもので、両親は家に戻ると合意しました。
ともかくも、次の条件が与えられていました:両親は、その子供に化学療法を施すことを強制されない。完全なカプセル化(固化)の後、この完結した腎臓のう胞は手術で除去されると。ハーマー博士は、この手術は1995年9月の初めに可能になると説明していました。しかしすべての交渉は、「エリート」たちのやみ取引であることが発覚しました…約束にも関わらず、オーストリアへ帰還しても化学療法を施されないはすの子供は、すでにウィーンの飛行場で母親の手からもぎ取られ、直ちに病院へ送り込まれました。これらすべてのできごとは、警察により護衛されていたのです。

おまけにオリビアの両親は、10年間すべての医療的な保護権に関する親権を剥奪されたのです!
 

ヘルムート・ピルハーは、すべてこれらのオリビアに関するできごとを「オリビア-運命の日記(仮称)」に書き記し、これを1996年に発表しました。

 

Olivia auf der Flucht
Olivia während der Chemo-Pseudo-Therapie
逃走中のオリビア
似非化学療法中のオリビア

ウィーンの中心地にある高級な「ラントマン」の会議室で、1996年にヘルムート・ピルハーの書籍の発表が行われた。

1996年と1997年に私はヘルムートと共にオーストリアでゲルマニッシェ ハイルクンデ®(当時はまだ新しい医学)を広めるため集中的に仕事を進めていました。

その間に、私はすでに離婚をしていました…

私はヘルムートとその他の友達と共に、ウィーンやヴィーナーノイシュタットにおいて、宣言と抵抗運動に参加し、またオーストリアの様々な都市で、ヘルムートのいくつかの講演を企画運営しました。

ハーマー博士の目撃者及び「個人のレポーター」として、私はオーストリアから(私の最初の大型の携帯電話の助を借りて)1996年にヴィーナーノイシュタットで行われたピルハー裁判を報告しました。1996年11月にピルハー両親は3年の執行猶予付き、8か月の拘束刑を言い渡されました。またこの裁判(1996年までこのような裁判が数多くありましたが)で、新しい医学の検証は許可されず、また新しい医学の正当性を示すその他すべての証拠の提出は許されませんでした。またすでに述べたように、ピルハー両親の医療に関する親権が10年間に渡り、あっけなく奪い取られてしまいました。

この間、ハーマー博士はまだ個人的にセミナーを開催していました。当然私はそれらすべてに参加していました…

一方大多数の人々はマスコミの責め立てるような報道により、大きく翻弄されていきました。

ハーマー博士はシステムにとってますます危険な存在になりました! さて、彼は今全く信用を落とされ、また発言の封じ込めに遭いました…敵に対して戦う、これらの方法は常に同じ形をとります…

1997年5月21日に、ハーマー博士が逮捕されたとの情報が入りました。ショックです! 私たちは、信じたくなかったし、全く信じられないことでした。

1997年の8月にハーマー博士に対する新たな裁判が地面から湧き出し、それはマスコミのキャンペーンで大きく報道されました…ハーマー博士は治療術行使の法律に抵触したという罪に問われました。1986年に博士は、医師の職業行使と、また治療師法に基づく治療法®の行使についての資格を剥奪され、またそのため彼があらゆる患者と接することが禁止されていました。その罪状は、まったく根拠のないもので、茶番だったのです! 

1997年9月9日に、ハーマー博士は9か月にわたる最初の拘束刑を言い渡されました。中でも判決には「被訴追者はまったく頑として聞き入れない」また「彼のその他の治療法に対するまったくの寛容性の無さ」などという表現がありました。
しかし、法廷の最も大きな恐ろしい所業は、ケルンの州法廷が1997年12月19日に決定した、ハーマー博士に精神病院(!)行きを命じたことで、何故なら彼が「公共にとって有害」という理由でした。続く時期にハーマー博士を精神病者にさせるためにさらに多くの試みがあり、全部で60回以上にのぼりました!

しかしながら、当時の彼の弁護士メンデル氏の努力のおかげで、すべてこれらの言語に絶する戒告的な試みは失敗に終わりました。

ハーマー博士逮捕の情報を受けて、私たちはただちに小グループを組織し、初めてケルンにおいてデモ行進を行い、この不条理に対して抵抗しました。私たちは約30名でした!

ハーマー博士の逮捕の後、初めてのデモ行進 
教授資格申請論文の     ポーランド語訳のページ

旗じるしの文字は:「ハーマー博士-医療マフィアの犠牲者」とか、「がんマフィアはまたもやった」、「ハーマー博士は無罪だ!」などでした。

ハーマー博士がケルンの刑務所にいた間の私たちの活動は、以下のような内容でした:

1997年にヘルムート・ピルハーは、彼の最初の新しい医学のための定期勉強会を創設しました。私たちは月に1度、ウイーンの第13地区にある、ヴィーナーヴァルトで出会い、そこでヘルムートが講義をしました。誰でも参加可能でした。後に彼がドイツ国内を講義をしながら移動していたとき、私はウィーンにおいて幾度か彼の代理を務めました。

私はハーマー博士が刑務所に入っていた間中、継続的に博士と手紙のやりとりをしていました。

これらの手紙は、今日私にとってかけがえのない価値のあるもので、何故なら刑務所においてさえ、ハーマー博士は彼の研究作業を続けていたからです。まもなく私たちは、彼が刑務所の中でさらなる重要な発見をしたことを知ります。今回はいわゆる精神的な病気に関してのものです。すべてこれらの新しい発見は「黄金の書」の新しい版に盛り込まれることになっていました。

私たちはこの「遺産」の新しい版が待ち遠しくてなりませんでした!
 とうとう、ハーマー博士が彼の刑務所からの釈放について交渉できる日がやって来ました。ハーマー博士はこれを彼の2005年に発行された自伝的な著書「Einer gegen alle(孤独な戦い)(仮称)」の中で詳述しています。


ハーマー博士に、ある条件付きの釈放が提示されました:彼が最終控訴を取り下げるようであれば、刑期満了前に釈放されるであろうと。トゥルナヴァ大学(スロバキア)が教授資格申請論文の審査手続きを行うとハーマー博士に提示したため、彼はこの「牛取引」に応じることにしたのです。とにかく、スロバキアでの教授資格審査手続きに立ち会わないわけにはいきませんでした…そこで博士は、良きことを先に進めるため、そのためだけに彼の控訴を取り下げました。

私はハーマー博士から彼がまだ刑務所にいるとき、もう1通の手紙を受け取りました。その中で彼は私にスロバキアでの計画された教授資格申請手続きについて説明していましたが…しかし彼は大学の提案を完全に信用したわけではありませんでした。そのため彼は私にトゥルナヴァ大学に行って招待の信ぴょう性を調査して欲しいと依頼してきたのです。 

1998年5月6日付け、ハーマー博士の手紙の一部、その中で彼は私がトゥルナヴァに行けるか、またこの訪問について報告できるかどうかと尋ねている…

カタリーナ・ブスティノヴァさんは、研究科の副学長の秘書で、私を心から迎えてくれ、また私を、ヨーゼフ・ミクロスコ  RN自然科学博士、Sc自然科学博士に会わせてくれました。その副学長は私に、ハーマー博士に宛てた手紙に書いてあったことのすべてを保証してくれました。

そうして、ハーマー博士は1998年5月に早期に釈放され、それにより彼は自ら教授資格申請検証手続きに立ち会えることになりました。彼の刑罰に対して付加された残る4か月は、11月から執行となっていました…

私たちは電話で連絡を取り続けました。当初よりハーマー博士は、とりわけこの招待に盛り込まれていた策略について「嗅ぎつけて」いました…

ハーマー博士は、私からその提案が実際にトゥルナヴァ大学から出されたと知らされた後では、「すべてをかける」と決めていました…しかしながら、この教授資格申請手続きを完了することは、1986年に最終的な法廷判決が下されており、そこでこの手続きを完了させるように指示されていた(そしてまたすなわち刑事罰に至るおそれが付されていた)にも関わらず、これまでテュービンゲン大学が結果を出すのを拒否していたものでした…テュービンゲン大学には、何年もの間支払い続けるという罰金が科されたのです。

その原因は、明らかでした:すでに1980年代の初頭から、テュービンゲン大学はハーマー博士が発見した自然の法則の正当性を審査しており、教授たちはハーマー博士の発見が正しいことを知っていたのです。

博士の教授資格申請論文の審査を拒絶することは、ともかくもこの著名な大学の信頼を損なうことになるでしょう。そのため教授資格申請論文の法的に有効な却下のために、ヨーロッパ中で、最も小さく、最も重要でない大学を見出したのです:トゥルナヴァ大学でした。ハーマー博士は、 ユリアンナとのインタビューの中でそれについて話しています。トゥルナヴァ大学での教授資格申請手続きは、ただ次の理由から許可されたものでした:目的はハーマー博士が提出した教授資格申請論文を却下することにありました。公式の文書をもって、教授資格申請手続きの拒否を科学的な機関から保証させ、これでシステムはとうとう博士の一件についての免訴を獲得するはずでした。 

またスロバキアにある最も重要でない大学が失うものは多くない。話は全くその逆でした。スロバキアはすでにヨーロッパ共同体への参入について、交渉の直前に立っていました。スロバキアがハーマー博士の教授資格申請論文の拒否について、成果を上げた場合には、確実にそのためのご褒美を得られるであろうということは、計算されていたはずです。

ハーマー博士にはたった一つの手段しかありませんでした:博士がその場で、まだ実際の教授資格申請審査に入る前に、大学の有力者たちの居る前で、彼の発見を一人一人の患者について検証しなければならない。彼はまたそれを条件として提示しました。ハーマー博士は、私に再びトゥルナヴァに行き、この可能性について交渉するように依頼しました。

この間に、私は何度もスロバキアに行き、ミクロスコ博士の秘書である、カティ・ブスティノヴァと友達になっていました。この友情が後に大変有用なものになったのです。

カティは、ハーマー博士が発見した自然の法則が実際にトゥルナヴァで立証されたことについて、重要な役割を果たしました。

ミクロスコ博士の許可を得て、カティは最初にがん学者のクレメリ-博士と連絡をとらせてくれました。私は大学で彼と話すことができました。彼は長い間ドイツのバイエルンの診療所で働いていたため、ドイツ語が流暢に話せました。挨拶の際、彼は次のように言ったのです:

「ああ、あなたでしたか...知ってますよ、彼(ハーマー博士)が正しいことは、しかし彼は50年早すぎましたね。」

それから私はユルガ博士に送られましたが、彼はトゥルナヴァのがん病院で働いていました。ユルガ博士は最初は患者についての正しいかどうかの検証に同意することを拒否しましたが、それはこの人数の人間の脳内CT写真を撮るのは、高く付きすぎて大学は払えないと考えたからでした。

私は再びウィーンへ戻り、どのようにことが進んでいるかハーマー博士に報告しました。

ハーマー博士が,、大学が選出した患者のCT写真撮影をしようとしないと聞いたとき、彼は私に、我々が患者にバスを手配して、彼らをウィーンの放射線機関に運ぶことをユルガ博士に提案するよう、(電話で)指示しました。

私はまたトゥルナヴァへ:ユルガ博士は、この提案には明らかに困惑し、ついにCTスキャンをスロバキアで行わせることに決定しました…

多くの「交渉訪問」の後、結局トゥルナヴァ大学はユルガ博士を通じて、最終的にハーマー博士の提案を受け入れました。このようにして、この一件におけるこの部分は、ともかく首尾よく運んだのです。

 トゥルナヴァ

1998年8月、ハーマー博士はことに当たって自分で決着をつけるべく、自らスロバキアへと旅立ちました。この滞在の間、博士と私はミクロスコ副学長の家に夕食に招かれました…それは大変優雅で、また敬虔なカトリックの家庭でした。このヨゼフ・ミクロスコ博士の夢は、バチカンの特使になることでした。また、なんという驚くべき偶然でしょうか:教授資格申請論文却下の後、ミクロスコ副学長は、いやはや実際にバチカンの特使になった(!)のであり、ハーマー博士はそれについて彼の自伝の中で詳述しています。

多くの患者においての正しいかどうかの検証は、1998年9月8日と9日に成功裡に行われました。残念ながら、私はこのときまだ仕事をしていて勤務免除をもらえなかったため、自らそこに立ち会えませんでした。

9月10日にハーマー博士はまだ、そのような検証が行われたことと、その検証の結果が良好なものであったという証拠となるべき、大学封印の入った正式な証書を一つももらっていませんでした。この日、私は再び自らトゥルナヴァに居ました。ハーマー博士と数人の友達そして私は、ミクロスコ副学長の秘書室に座っていました。いつのときか、ハーマー博士は私の方へ向き直って言いました:

「カティのところへ行って検証証明書について聞いてきて。どうしても、君がその証書をもらいたいと主張して。」

そこで私はカティ・ブスティノヴァのところへ行って頼みましたが、しかしミクロスコ副学長はこの日大変「お忙し」かった。そのため、私たちは何時間も待たなければなりませんでした。私たちは確信が持てませんでした:カティはそのような書類をもらえるだろうか? 私たちは、熱い石炭の上に座っているようでした!

私たちの友情のおかげでカティは快く、検証の証明書の草稿を文書にして作成し、そしてまたサインをするためにミクロスコ博士の前に差し出してくれて、ミクロスコ博士は実際にサインしたのです。

後は検証に立ち会ったその他の医師たちのサインが欠けていました:ポガディMu医学博士Sc自然科学博士教授、及びクレメリ―Mu医学博士Sc自然科学博士教授です...

カティは最終的にこれらも(私の側から何度も催促した後ですが)もらってきてくれました。

カティ・ブスティノヴァなくしては、私たちは今日この証書を持っていなかったでしょう。そのため私たちは彼女に大変深く感謝しているのです!
 
私たちはハーマー博士が発見した法則が正しいという証となる、大学の証書を手にして、大学の建物を後にしました! 大成功です!

ハーマー博士はさらに、彼らが教授資格申請論文を却下するであろうことを確信していました。そして、それは当たっていました!
患者に係る自然の法則についての検証が成功した後で、それに続く教授資格申請論文審査で、彼の教授資格が却下されたのです! それはばかげた状況でした! 私は教授資格申請論文審査に立ち合ったので、それが科学的な検証でなかったことの証人になれます。ちなみにビデオに出て来る金髪の女性は私です。 

教授資格申請論文審査は茶番でした。そこには30人の教授が同席するはずでしたが、最終的にたった6人の教授しか来ませんでした。ハーマー博士が言ったように、ただミクロスコ博士とポガディ教授のみしかハーマー博士の論文について理解していませんでした。ヨーゼフ・ミクロスコ博士を除いて、彼らのうちの一人も彼の研究を知りませんでした。誰も論文を読んでいなかったのです! サーカスです! そして、ハーマー博士の予言通り、教授資格申請論文は却下されました。その後私たちは全員夕食をとりに外へ出ました。私は、ハーマー博士と委員会の中の委員の一人である、ポガディ教授(ちなみに精神科医ですが)との、悲しい会話の証人となりました。

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ハーマー博士は、見抜いていました。大学からの提案は、初めから誠意あるものではなかったのです。それを行うたった一つの目的は、ハーマー博士の発見を「却下する」、大学からの証書を「生産」するためだけでした。私たちは、大学はただその教授資格申請論文を却下するという命だけを受けていたため、大学病院による患者に係る発見の正しいかどうかの検証が可能になったのだと考えています... 
ゲルマニッシェ ハイルクンデ®の規則性を検証することについての明確な禁止令は、おそらく出ていなかったのでしょう。そのため大学はこの点においては、ほぼ「独自の」決定を下せたのです。 
私たちは、この「陰謀」の中に巻き込まれた大学の教授たちは、この検証がそれ自体どれほど大きな意味を持っていたかを何も知らなかったのだと考えています...この証書は最終的に教授資格申請手続きよりも重要でした。教授資格申請の手続き自体、そもそもそれもハーマー博士の発見の検証によってすでに一部が「崩壊に導かれた」、システムが考え出したものにすぎません。

スロバキアからハーマー博士は直接スペインへと旅立ちました。その時点から、博士は亡命生活を生きることになります。最初はスペインで、そして後にはノルウェ-で彼の死を迎えるまで。

 

ゲルマニッシェ ハイルクンデ®について、私の小学校での最初の会合

ハーマー博士はこの成功した検証をただちにインターネット上で公開しました(当時はまだヘルムート・ピルハーのホームページ上でした)。翌日すぐに正式なメディアにハーマー博士は証書の偽造をされたのだという記事が出ました...そして、その記事にはもちろん、教授資格申請論文審査が不成功に終わったという情報が入っていました。
「エリート」たちは教授資格申請手続きが、不成功に終わるであろうことを先に知っていましたが、しかし彼らはそのあとに成功裡に終わった検証について聞かされたのです...それは、彼らの計画に合致しませんでした。
その後すぐ、1998年に、私はハーマー博士と共にもう一つのセミナーを、スロバキアにおいて組織しました。それはペンション ドルツバ(Penzion Drozba Bojnice)で行われ、また1999年にはハラルド・バウマンが、スイスで新しい医学のための最初で最後のコングレスを組織し、そこで私は「未来における新しい医学と教育」というテーマで講演しました。
ハーマー博士もコングレスに出席しており、私の講演にも立ち会ってくれました...その講演を博士は気に入ってくれました...
コングレスの間に、ハーマー博士を逮捕しようと秘密警察の人々が現れました。私たちはうまく、博士はここには居ないなどと言って、その人々を立ち去らせることに成功しました。ハーマー博士はこの時点でいまだに、例の彼の刑の4か月を「未履行」だったのです。

2000年の夏、私はハーマー博士をスペインに訪ね、そしてこの訪問のあと私はポーランドにおいて「新しい医学」の講座を組織し、講演することを決意しました。ポーランドでの最初の講義は、2000年に私の小学校で行いました。参加者は私の家族や数人の友人のみでした。
ハーマー博士はスペイン滞在中、一方ではさらに科学的な観点から大変活動的であり、他方では彼の発見が法廷から認められるようにさらに努力を続けました。彼は役人たちと数えきれないほど多くの手紙をやりとりし、また法廷に対して多くの訴えを起こしました。しかしながらそれらすべては、効力を発揮することはありませんでした! 

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