リュケ・ゲーアド・ハーマー医学博士によるゲルマニッシェ ハイルクンデの知識に即した

意味深い生物学的な特別プログラムの

様々な統括

膵臓がん

古代ギリシャ人たちは、アスクレピウス派の人々と共に、精神的な葛藤の克服の文化を発展させた人々であった。アスクレピウス派の僧侶たちは、相談に訪れた人々に昨夜の夢について質問し、そこから彼らの精神的な問題と身体の病気を解き明かした。

また人が当然昔の人々の証言では、ただ大雑把であり、また大部分はぼんやりとしていた当時、また組織化もされていなかったが、精神とがんの発生との相関関係の問題に、推測された病理学的な経過と身体的レベルの 事実因子の研究に固執した我らの20世紀よりも、すでにより肉迫していたと言える。また特定されていないがんの病気との関連性におけるストレス研究は、ほとんどの場合すべてのがん患者がca‐相においてストレス(継続的ストレス状態)を持つため、原因とその影響を取り違えている。

固有の症状を伴う、葛藤が活発なストレスの相と、葛藤が解決された迷走神経系の相とを区別しなかったため、そもそも誰も事実上 がんとの相関関係に気づくことができなかった。また精神的な「値」も、同様に両方の相で大変異なっている。そのため、人が個体発生的な腫瘍のシステムを知らないことから、全く異なる病気の相及び症候を、あるはずもない共通の呼び名をもつマーカーで検査するということにつながった。

 また人は、最初の病気とその後に続いて発生した病気の間で、あるいはさらにすでに完治し、ただ偶然に発見された古いがんとを区別しなかった。そのため、それらの検査の多くの結果は、同様にそれ自体無意味である。1981年のゲルマニッシェ ハイルクンデ発見以前にも、多くのがんの発生理論が唱えられてはいたが、しかしがんが生物学的な葛藤、すなわち我々に予期せず「間違って反対の足を」捕られるように襲う、あるドラマチックな、大変重篤で孤立した状態で起きる葛藤のショック(DHS)から発生するとは、誰も予想だにしなかった。

例: ある女性患者が短い期間にすでに4人の最も近い親類を失ったが、彼女は父、母、兄と叔父について、それぞれの家族が誰も生き延びる望みがないことを事前に知っていたため、その際一つの生物学的な葛藤にも陥らなかった。しかし叔父さんが、彼女に素晴らしく美しい長持ちを遺すと約束していたのに、彼の遺書には患者の姉妹が相続するとあったため、患者は全く茫然自失となり、またDHSに襲われた。彼女はすでにそれを固くあてにしており、早くも居間のとっておきの場所をそのために準備していたため、全く間違った足を捕られた形となった。彼女は消化できない葛藤に襲われた。最終的に彼女は獲物(長持ち)を頭の中ですでに取り込んでおり、そしてさてそれを頭の中で再び吐き出さなくてはならなかった。

彼女は膵臓がんに罹った。

「心理学的」に見ると、それぞれの近い親類の死(「喪失」)はいずれも、より大きく重要性を持つはずであるが、しかしそうでなかったのは、4人の親類は誰も、ここではそれはまた大変悲しいことではあったが、もはや成すすべがなかったことを、人が事前に知っていたためである。親類たちは相応に悔やまれて逝き、それは精神的な、あるいは心理学的な喪失の葛藤ではあったが、生物学的な葛藤ではなかったのである。

長持ちを相続しなかったことは、女性患者に全く晴天の霹靂として襲った。それは彼女にとって生物学的な葛藤の、そしてまた膵臓がんの原因となった。しかし、我々がさらにここで確認するであろうことは、また膵臓がんがある種の「故障」ではなく、意味深い生物学的な過程であるということである。

この関連で重要なことは、全く同じ一つのできごと(例えば事故などの)が、必ずしもどの人においても同様の葛藤を引き起こすとは限らず、あるいはさらにそもそもDHSとして作用するはずであるということもないと、理解することである。一つの葛藤を病むということは、同時に何か最も個人的なことであり、また患者が自身でそれについて報告することだけが、決定的であると言える。

膵臓がんにおいては、ほとんどの場合、家族に関わる葛藤である。

A. 怒りの葛藤「獲物の取り合い」例えば相続での葛藤

ハーマーの病巣は脳幹(橋梁)、右側側方にある。

葛藤が活発な相においては、コンパクトな腫瘍を形成する。

この腫瘍は、特に糖分とたんぱく質を分解することができる膵液を、より多く生成するという役割を担っている。患者はこの相の間はただいわゆる後腹膜部に、つまり腹膜の後方であるが、いくらか圧力を感じるが、それは膵臓が腎臓のように腹膜の後方、「後腹膜」に位置しているためである。

治癒の相において患者は、通常の寝汗等々を伴う結核症状がある。

膵臓は、いわゆる大腸に付随する器官であり、肝臓あるいは肺(肺胞)と同様である。すでに述べたように、生物学的な意味は、膵臓内でより多くの消化液を生成することであり、獲物(長持ち)をおそらくそれでも尚、飲み込む(消化する)ことができるようにするためである。あるいはまた別の表現をすれば:より多くなった膵臓の組織が、より多くの膵液の分泌で、より良い獲物の消化に利用されることである。

また今日では獲物が我々にとって食物の獲物ではなくても、動物にとっても同様に該当する-動物にとっても 5つの生物学的な自然法則が、当然同様の形でアナログ的に適用可能であることに違いはない(獲物の喪失)。分泌性の性質を持つ、ほとんどのカリフラワー様に成長する膵臓-せん様-がんは、しかし見かけほど危険ではない。

膵臓-せん様-がんには、2種類の治癒がある:

  1. マイコバクテリア が、(DHSの際に)存在する場合-結核性で乾酪化、壊疽化しながら解体し、最後に膵臓空隙ができる場合。その際ほとんどの膵臓-せん様-がんは手術の必要は無いが、何故なら人は(膵臓結核の後の状態で)、緊急時に消化酵素を代替できるためである。 
  2. マイコバクテリアがDHSの時点で存在していなかった場合、カプセル化することで治癒する。患者は通常の迷走神経系の症状以外には、ほぼ全く追加的な症状が無い。しかし患者は生物学的にはそれに意味が無いにも関わらず、さらに継続してより多くの膵液を分泌し続けるという「欠点」を持っ。 

B.上皮に罹患する、縄張りの 怒りの葛藤、あるいは自己確立の葛藤は、

膵管(=壁紙)(右ききか左ききか、ホルモンの状態精神分裂的脳内配置等々に依存して)に存する。ここにおいてハーマーの病巣は大脳の右こめかみ部分にある。

膵臓は同様に複数の様々な子葉の部分が機能的に一緒に構築された器官に属し、またそのため様々な葛藤の内容を有している。

膵臓-層状扁平上皮-潰瘍

例えば、外側の子葉に属しており、右ききか左ききかにより縄張りの、あるいは自己確立の葛藤に相当する。

小脳と大脳の葛藤においては、右ききか左ききかが決定的な意味を持つが、一方脳幹ではそれはまだ役割を持っていない。そのため手叩き検査(拍手喝采)は、ゲルマニッシェ ハイルクンデにおいて大変重要な検査基準である。右の手が上にあれば、人は右ききであり、反対であれば左ききである。

さらなる葛藤の追い打ちについては、すなわち葛藤に襲われる順序が、きき手と並んで決定的であるが、しかしまたさらにその時点でのホルモン状態も重要である:経口避妊薬、更年期、ホルモン薬の服用、卵巣切除/-放射線治療、化学療法等々である。

左ききの若い男性は、例えば縄張りの葛藤の際に、膵管-層状扁平上皮-潰瘍を病むことはなく、直腸の潰瘍を病む。

左ききの若い女性は、その反対に自己確立の葛藤の際に、膵管-潰瘍(あるいは胃潰瘍あるいは 胆管潰瘍)を病む。

通常右ききの若い女性は自己確立の葛藤の際に脳の皮質の左側、女性的な側の脳半球で反応する。しかし例えば同じ女性が経口避妊薬を服用すると、その際彼女は葛藤の際に男性的に受け取り、彼女の ハーマーの病巣を右側の男性的な側の脳半球に持つ。

器官から脳へ、あるいは脳から器官へは、関連性は常に一義的である。精神と脳、あるいはその逆の間の相間関係においてのみ、左ききと右ききが重要性を持つが、何故ならそれらが葛藤/脳内の道について決定するためであり、それを持って、またそれに関連して、患者が一体どの葛藤において、どの「病気」に罹患する可能性があるのかが決まるのである。

女性的な自己確立の葛藤

葛藤の内容は「自分がどこに属しているのかわからない、あるいはどこに行くべきなのか、またどの決定を下すべきなのかわからない」であり、器官的には直腸-粘膜-潰瘍に相当し、右ききの女性の場合である。

ca-相では、痛みのない直腸-潰瘍が発生し、それは稀に出血するか、あるいはまだこの相においては出血せず、通常pcl-相になって初めて「痔ろうの痛み」として誤診される。生物学的な意味はまたここでも潰瘍性の直腸の拡張であり、より良い排泄と、またより良い存在場所の確定(自己確立)である。

治癒相においては、患者さんたちは痒みと痛みがあり、同様に強い粘膜の炎症を起こし、治癒の途上にある潰瘍から出血を見る。この大きく膨張した潰瘍性の粘膜は、明るい色の血液を出し、以前はほとんと常に「痔ろうの出血」と診断されていたが、今日ではしばしば全く同様に間違って直腸がんと誤診され、また残念ながら全く意味なく、また不必要にも直腸摘出をもって手術的に「治癒される」。

しかし人が対症療法的に消炎誘導的な治療以外には全く何もしない場合、そして葛藤の再発を妨げる場合、直腸潰瘍は問題なく完治する。それでもまたここでも次のことがらが該当する:同時に起こる腎臓集水管のがんを伴う 症候群、いわゆる避難民の-/生存の-葛藤、あるいはひとりぱっちにされた葛藤、面倒見てもらえない/充分に面倒見てもらえない-と感じる葛藤、ひいては病院に行くのが不安の葛藤、等々に注意すること。

また、しばしば周辺の直腸の筋肉が共に罹患している。これはca-相において麻痺を起こし、pcl-相では癲癇性の危機=癲癇性の発作である。とりわけ両方の(感覚的及び運動的な)癲癇の危機が同時に発生する場合、感覚的な部位は癲癇性の筋肉の発作の間、感覚麻痺及び失神を起こす。

我々はそれを直腸テネスムス(しぶり腹)と呼ぶ。癲癇性の危機の後には、感覚的な掻痒及び痛みが戻ってくる。 

何等かの治癒相の枠内で我々の有機体の中に水腫が蓄積されると、例えば膵管-潰瘍、肝炎、腎臓のう胞、胸膜炎あるいはまた治癒相における直腸-潰瘍等々の場合であるが、その際腎臓集合管のがんの活発な相が追加的に起きると、過剰なかたちで水分が貯めこまれることとなる;すなわち直腸の粘膜はその際2倍にも、あるいはさらに大きく膨張し、すなわち問題を起こし、また同様に脳内のハーマーの病巣も当然同様である。直腸内部では、例えば排便困難(=便通の問題)が起きる。   

膵臓-層状扁平上皮-潰瘍において

左ききの女性では葛藤が活発な相に膵管-枝管及び主膵管(ドゥクトゥス パンクレアティクス)に潰瘍が発生する。生物学的な意味は潰瘍性の膵管の拡張であり、それにより、より多くの膵液を分泌するためである。

治癒相においては、潰瘍に罹患していた膵管が炎症を起こす;さらに血清内のアミラーゼの値が高まる。その際ほとんどの場合に膵臓-腫瘍という診断が下され、それはしかし実際腫瘍ではなく、「ただの」いわゆる仮性-腫瘍である。それは炎症が収まると、罹患していた膵管はほとんどの場合また再び通過可能になるためである。

しかしながら、またここでも次のことが当てはまる:症候群に注意せよ。

またこの葛藤が、同様に外側の子葉に属しており葛藤としては同様の内容を持つ、胃潰瘍あるいは胆管潰瘍にお仲間入りすることは、稀なことではない。。

胃-粘膜-潰瘍では

例えば縄張りの怒りの問題であり、ほとんどの場合境界線の争いの葛藤、例えば「隣人-縄張りのボス」との間の問題であり、また縄張りの内容物が関係している。

文字通り、常に怒りの葛藤で反応する「胃潰瘍タイプの人々」が居る。

葛藤が活発な相では、胃の小弯に添って、幽門に、また十二指腸内に、胃の粘膜の物質の欠損が発生し、それらはそこに向かって外胚葉の層状扁平上皮が引き込まれた部分であり、大変敏感な部分である。そのため、痛みや胃結石がある。

生物学的な意味は潰瘍性の胃の導管、特に胃の出口の拡張である。胃潰瘍は痛みを伴う!

(SS喉粘膜-系統!)。

治癒相において我々はしばしば出血する胃-潰瘍(喀血及び黒い便)を見る。それはそもそも良い兆候であり、基本的に悪いものではないにも関わらず、我々はそれを悪く見てしまいがちである。

この相において患者は、感覚的(痛み+失神)な、また胃の横紋筋に起きる(=痛みと失神を伴う胃の癲癇)、運動的な (癲癇の) 発作という2重の発作が起きるまで、痛みが無く、またもはや結石も無い。

症候群に注意せよ。

また肝臓内及び肝臓外の胆管-潰瘍

においても同様で、縄張りの怒りの葛藤である。隣人の縄張りの境界が侵害され、「隣人のボス」が襲い掛かる恐れがある。またしばしばお金に関わる争いのこともある。

葛藤が活発な相では、肝臓内部及び肝臓外部の胆管と胆のうに痛みを伴う潰瘍が形成される。

 生物学的な意味はまたここでも潰瘍性の胆管の拡張であり、より大きくなった直径により、胆汁の通りが良くなるということにある。

治癒相では我々は肝炎を見出す。潰瘍の治癒の目的での、管内部の粘膜の炎症により、一過性の胆管のつまり(黄疸)及び胆汁の滞留が起こり、肝臓内部及び肝臓外部の胆管の、数的に優勢を占めるもの(黄疸性の肝炎)か、あるいはただ小数部分のみを占めるもの(黄疸性でない肝炎)のどちらかとなる。

  • 同時性の感覚的な癲癇性の危機の場合:痛み及び失神 
  • また運動性の癲癇の発作の場合:胆管結石 
  • またα細胞の感覚的な癲癇の危機の場合:血糖値が0にまでなる低血糖-危険!

しかしウイルスは、それらが存在する場合、そしてそれらがそもそも存在するのであれば、(何故ならそれらはこれまでことごとくいまだ証明されていないのであるから)、我々賢い医師たちが愚直に信じ込んできたように肝炎に作用するのではなく、治癒の経過を最適化するために我らの有機体がそれらを利用したと言える。ウイルスが全く存在しない場合でも、その際治癒相は当然、それでもなお経過するが、しかしおそらく生物学的に最適ではないであろう;

例えば非A型、非B型、非C型肝炎。

我々の脳が常に、どの種類の細菌が、どの仕事で、いつ、我々を助けても良いかを決定するのであり、それもつまり我々の脳がそこで仕事をさせる、ある特定の種類の細菌のみである。そして同様に我々の脳の命令に従い、間違って言われている病原性の細菌から、再び良性の、病原性でない細菌となり、我々の有機体のどこか邪魔にならない場所に、しかしそれらが再び必要とされるときには、いつでも再活性化され得る場所に退却する。

胃潰瘍や肝炎の治癒の経過において、その恐れられたものは、何か胃の出血ひいては高くなった肝臓の値(特にガンマ-GT、アルカリホスファターゼ、またさらにおそらく黄疸性の経過の際にはビリルビン)ではなく、癲癇性の危機であり、それらは肝臓の値がちょうど再び下がり始めた時に起きる-胃の場合には、胃の癲癇発作である。

「肝性昏睡」(肝臓内でのアンモニア形成)には最大限の注意が払われるべきであり、実際には癲癇性の危機の際の脳性昏睡である。

治療はos(口腔)を通したグルコースの事前投与であり、患者に意識が無い場合で、また胃ゾンデが不可能な場合には、点滴注入によって少量の水分を投与するか、あるいは全く水分を投与しない。

注意

するべきは症候群であり、肝臓のカプセルの緊張痛を伴い、肝臓肥大に作用する(強い肝臓の膨張)。

また肝臓肥大により、肝臓の値、特にガンマ-GTが大きく上昇するが、それは症候群の無い場合はずっと低く推移するはずである。

 しかし例えば長期間に渡る、また強度の葛藤の経過におけるすべての複雑化でさえも、有り難いことに必ず陥るわけではなく、ほとんどの患者さんたちが再び健康を取り戻す。

それは我々が ゲルマニッシェ ハイルクンデを知って以来、がんとすべてのいわゆる病気がどの図式に添って発生し、経過し、そしてまた再び停止されるのかを知り、我々が可能な手段でどのように症候群を回避できるか、あるいは収束させることができるかを知ったためである。

著作権はリュケ・ゲーアド・ハーマー医学博士に帰する

 翻訳:日本語作業チーム