リュケ・ゲーアド・ハーマー医学博士によるゲルマニッシェ ハイルクンデの知識に即した
意味深い生物学的な特別プログラムの
様々な統括
大腸がん -大腸、直腸、 S字結腸、小腸
大腸がんは内側の子葉(内胚葉)に属し、その関連するリレーは脳幹にあり、またそのため葛藤が活発な相においてコンパクトなせん様細胞タイプの腫瘍ができる。
脳幹に司られているせん様がんは、常に獲物を獲得することができない、飲み込むことができない、消化するあるいは排泄することができないというときに発生する。この生物学的な葛藤は、基本的に人間と動物にアナログ的に起こる考古学的な葛藤として、進化の歴史的に理解するべきものである。
動物は、これらほとんどの生物学的な葛藤を依然として現実的な意味で感じ取るが、我々人間はしばしば転化させほぼ洗練させた形で、ほとんど妄想的ともいえる状態で感じる。我々は一束の株券とか、1000マルク札とか、あるいは倒産した会社などを獲物として感じており、また我々がそれを失ったときに生物学的な葛藤を病むことになる。自然の背景の中では一束の紙は当然全く価値の無いものである。
動物にとって飲み下せない、あるいは消化できない獲物は、実際に栄養物の一塊である。
例: 動物が獲物を骨のついたままがつがつと飲み込んでしまい、その骨の塊が腸に横になってひっかかり、もはや前にも後ろにも動かない-真に消化できない葛藤である。動物はその際結石を病む。このDHS (葛藤のショック)である結石とともに、今意味深い生物学的な 特別プログラムのスイッチが入る。またこの特別プログラムは、この獲物から口の方向へ、すなわち中枢に近い向き(川であれば流れにさかのぼって)に、カリフラワー様に成長するコンパクトな腫瘍の、大腸がんを成長させる。
葛藤が活発な状態が継続している限り、この腫瘍は成長する。同時に、マイコバクテリア(結核性バクテリア)が血液中で同様に急激に増加するが、その個体が少なくとも一つこの種のものを体内に保持(これはとりわけ自然界においては自明の前提条件であるが)している場合であり、また治癒相において後の腫瘍の解体に必要とされる分量のみである。
ただその獲物によってのみ成長したその腫瘍は、大変多量の消化液を生成することに寄与している。またこの消化液は、あたかも氷のキューブを温水に入れて融かしてしまうかのように、この獲物をより小さく消化する。そしてこの骨はいつか充分に小さく、滑り落ちることができるまでさらに消化される。獲物の塊が滑り落ちるやいなや、葛藤の溶融 (葛藤の解決)が起こる。腫瘍はもはや機能を持たなくなり、結核菌、つまりマイコバクテリア、真菌性バクテリアによって乾酪化し、そして再び消滅する。その葛藤の過程はそれによって完結する。
一体全体悪性とは何だろう?という質問が起きるかもしれない。回答: 悪性のものなど無い!
何故ならすべて母なる自然が成すことは良性だからである!我々のみが「悪意のある無知」だったのである。我々は細菌を常に我々の免疫システムを使って駆除しなければならない、大きな敵の艦隊として想像していた。これは正しくなかった。細菌は決して我々の敵などではなく、常に我々の友達であり、我々の助っ人であり、我々が自身の馬鹿さ加減からほとんど撲滅してしまったものたちなのである。
当然我々人間において、この消化できない獲物は今日通常ではすでに食べ物の塊ではなく、例えば車、家、遺産、倒産した会社、負けた裁判、就職口あるいはそれに似たようなものである。しかし、我々はいまだにあたかもそれが「消化できない生物学的な葛藤」を引き起こした、食べ物の獲物の塊であるかのように、生物学的-考古学的に反応するものであり、例えば大腸がんとしては次のような葛藤がある。
- 醜い、消化できない怒り(大腸)、
- 醜い、ずるい、卑劣な「糞の葛藤」(直腸)、
- 醜い、ひどい糞の葛藤(S字結腸)。
患者は、これを生物学的な言語に置き換えて理解しなければならない。それらの葛藤を理解するためには、考古学的な葛藤に自分を入り込ませて、それらの葛藤を、器官の病徴すべてを含めて、進化の歴史的に後ろへたどって行けるようにしなければならない。
例: 誰かが宝くじで当たったと思い、さっそく友達と親戚皆を招待した。後にわかったことは:その男性が何年もの間常に同じ番号を入れていたため、宝くじ販売所の女性が「ご親切にも」宝くじの番号を一つ書き換えてくれていたのである。そして今、次のように想像しなくてはならない:その患者は番号入力票に正しく記入していたため、この獲物である3万マルクをもうすでに口に入れており、最終的にそれを吐き出さなくてはならなかった。
犬であれば、30枚の1000マルク札には確実に興味を示さず、一度匂いを嗅いだあと「これには意味がない」と言うであろうが、しかし一人の人間にとっては、それで何でも買えることを知っているため、それは一つの獲物の塊であり、そして彼は口蓋がんに罹るのである。
犬はただ本当の獲物の塊においてのみ、もしまたこれを取り去られれば、同じ病気に罹るであろう。しかし、この当たりの宝くじを獲物の塊として想像することは、人間がよくやることであり、それほど大きな想像力を必要としないであろう。
あるいは、ある患者が獲物の塊をほぼすでに飲み込んだが、しかし今やはり消化できないという葛藤にさいなまれている;例えば彼は既に家を購入したが、また突然わかったことは売買契約が無効であったことで、彼は騙されたのであり、再び家を失うこととなった。
患者は、その時点において正しくそこに属しているDHSと、また当然同様にそこに属している典型的な葛藤の内容を見出すことを学ばなくてはならない。その際彼は、そこには彼がもはや全くパニックに陥る必要が無いような、大変明快なシステムが存在していることを嬉しい驚きをもって理解するが、それは彼がその原因のみでなく、全体的な経過まで自分自身で観察し理解することができるからである。
がん細胞が、それらがまだ一度も観察されたことのない血液中の道中で、ましてやまた移動中に変化までするという、そして例えば大腸がんの細胞が、大腸内でカリフラワー様のコンパクトな腫瘍を形成していたところ、突然骨の中に移動して行き、そこでそれらが 骨粗しょう症に変性することができるという仮説のおとぎ話は、全くの気違い沙汰であり、中世時代の独善主義に他ならない。医師が、転移と判断したものは、新しい葛藤のショックから引き起こされた、すなわち筆頭としては病理学的に、つまり医師が引き起こした、診断と予後のショックからの新しいがんであった。いまだかつて一人の研究者も、いわゆるがん患者の動脈中の血液にがん細胞を見つけることができていないが、それらは身体の外周すなわち外部領域で泳ぎ回ることができるのであれば、そこにも見出せなくてはならないはずである。
しかしながらある患者が、大腸がんがありますね、手術しなければなりません、と言われたとすると、その際彼は通常2つの新しい葛藤に襲われる:切開されなければならないであろう腹部に対する心理的な攻撃、そのような生物学的な葛藤では腹部の 中皮腫(腹膜がん)及び、単体のまた常に右後部の肝臓がんに罹ることとなる。
それは、嘘だとしてもそこにがんがあると言われているため、もう何も食物が腸を通過することができないという、生物学的-考古学的な不安を表現している。それは、患者が文字通りある考古学的な餓死への、あるいは腸閉塞に罹って餓死することへの不安を抱くことを意味しているが、それはまた食物がもうそこを通り抜けることができなくなることを想像するためである。
診断から手術の時点までしばらくの時が経過し、その際執刀医は通常ぺリトネウム(腹膜)にいわゆる小のう胞様の「転移」を発見し、また患者がさらに手術の直前や直後に肝臓のCTを撮影された場合は、また右側後部に前述の単体の肝臓の丸い病巣が発見されることとなる。そのような患者はその際、通常手術不可能、不治、すなわち見放された症例とされ、残念ながらそのような症例は枚挙に暇がない。今では我々が、患者が治療的に、すなわち診断と手術の宣言によって、追従する生物学的な葛藤及び病気に罹ったことを、大変システム的に、かつ生物学的に順序正しく確認できることがらについて、以前は「転移のおとぎ話」を信じていたのである。
これを詳説するのは苦しいことであるが、執刀医はおそらく相関関係を知らないため、今日しばしば行われているように、この単体の肝臓の丸い病巣をいまだに摘出し、また「腹膜転移の数々」をできる限り多く掻き取るのである。
またこれに言及することは苦しいことであるが、患者がその際手術の後ほとんど「今はもう悪いものからは解放された」と考え、彼の腹部への攻撃の葛藤の解決のしるしとして、またさらに治癒の兆候としての腹膜血腫(腹腔内の液体)に罹ると、それはまたその時点で執刀医と腫瘍科の医師は共に終わりの始まりとして認識するが、それは彼らが両方とも生物学的な相関関係について知らないからである。
その時点から、将来腸に関わることであればすべて、この肝臓がんの再発を起こすという悪循環の輪が閉じる。
そこに2番目のあるいはさらに3番目のがんがあるという事実には議論の余地がないが、しかしこの事実の評価については充分議論すべきであろう。
一体全体我々は、そもそも腫瘍の根源的な意味が何であったのか、そしてまた今日でもその意味は何なのかという質問に行き着いたことがあったのか?
このがんあるいは腫瘍は、全く意味のないものではなく、何か大変意味深いものであった。その獲物の塊がすでに胃か腸にあり、つまりすでに飲み込まれている場合、しかしそれが大きすぎたために消化されることができない時、その際有機体はある暴力的な、いわゆる腫瘍を作った。この腫瘍はしかし何か意味のないものではなく、消化のための細胞であり、一回のみ使用される大腸の「使い捨て細胞」であり、これが多量の消化液を生成し、またそれによって獲物が動物界において飲み下され、消化されることができるよう、消化可能にするのである。
我々は正確にゲルマニッシエ ハイルクンデの新しい知識に基いて、何が意味深いことであるか、それをすることが不可欠かを熟慮しなければならないが、それは例えば実際に腸閉塞の恐れがあり明らかに予防として手術をするであろうという症例と、また我々がすでにする必要がないことがらについてである。何故なら葛藤の解決の瞬間に、特別プログラムのスイッチが再び治癒相へと切り替わるからである。
さて、我々の良い子である細菌が、この例においてはマイコバクテリア(患者がDHSの当初からこれらをいくらか体内に持っていることが条件であり、そのあとでは何の役にも立たない)が登場し、またほとんどの場合ときどき起こる出血を伴って、この腫瘍を再び乾酪化する。また我々が3~4か月後に腸内を検査すれば、かつてこの腫瘍があった場所にただ瘢痕面を確認するだけである。母なる自然は腫瘍を自分で外科的に取り去った、つまり細菌のレベルで取り除いたのである。それは自然の外科治療である!しかし患者がマイコバクテリアを全く保持していない場合には、患者がここに属している葛藤が明らかに解決していると確信を持てるのであれば、そもそも彼がその大腸腫瘍を手術して取り除いてもらいたいのかどうか、共に検討しなくてはならない。
潰瘍性大腸炎は、平面的に増殖し、いわゆる吸収性の性質を持つ(つまり腸からの栄養素が血液とリンパ液の系に取り込まれる)、常にすでに治癒相の状態にある結腸がんである。潰瘍性大腸炎とは、もともと再発性の結腸結核のための全く間違った名称であり、すなわち後続の結核性の治癒を伴った、しばしばの葛藤の再発のことである。葛藤は常に醜い半分性的な葛藤であり、人があるものを最終的に吸収(摂取)できなかったということである。患者が再び葛藤が活発な状態に陥ると、「一時的軽快」と名付け、また結果的にそこに重ねてpcl-相が続くと、それを治癒相の「病気」、あるいは潰瘍性大腸炎と名付けた。医療的な症状は、下痢、血便、粘膜のただれ、寝汗、食欲がある倦怠感である。
治療とは、さらなる再発を防ぐために葛藤を認識することである。
直腸の膿瘍にあたるもので特別なものは、その上部にある直腸の層状扁平上皮の粘膜下にコンパクトで平らに成長する腫瘍である。触ることができるが、見えない。その腫瘍が直腸の粘膜下で乾酪化し、壊疽を形成しながら解体される場合、我々はそれを粘膜下の膿瘍と呼ぶ。この膿瘍は通常いわゆる痔ろうと見られており、そのためまた直腸側部の膿瘍と名付けられている。
本来の直腸-「がん」あるいは直腸潰瘍はしかしながら外側の子葉(大脳)に属しており、また葛藤が活発な相においては腫瘍ではなく潰瘍を形成するが、つまりこの相においては決して出血がなく、また痙攣や痛みを起こさない。この潰瘍は葛藤の解決の後に、ウイルス(もし存在するとすれば!)の助けを得て、炎症を伴いながら再び充てんされる。その時点で、それらは出血と過敏症、痛みを伴う大きないわゆる痔ろうを形成する。特に症候群の際には痛みが強い。筋肉の痙攣はその痛みから引き起こされる!
脳幹の葛藤がまだ患者のきき手に左右されないのに比べて、大脳及び小脳の葛藤では大きな重要性を持つ。ここで同様に重要なことは、閉経や経口避妊薬服用など、そのときのホルモンの状態である。
簡単な手叩きテストで、その人が右ききか左ききかを調べることができる:手たたきの際に右ききの人では右手が上になり、左ききの人ではその反対である。さらに左ききの人ではその葛藤は脳の反対側に置かれ、直腸(がん)の代わりに、 胃– あるいは 胆のう道-潰瘍が発生することになる。
上部の小腸がん(空腸)ひいては、下部の小腸がん(回腸)においては、またこれらは脳幹に属しているが、同様に「獲物を消化できない葛藤」(消化できない怒り)が原因であり、ほとんどの場合追加的に餓死についての観点を伴っている。
同様に回腸がん(治癒相においてはまたクローン病と呼ばれている)は、ここでは加えて出血を伴う粘膜のただれがあり、粘膜が剥がれ、消化されて大便とともに排泄される。
多くのがんは、すでに治癒相にある時点で初めて発見されるが、何故ならそれらのがんはほとんどの症状の訴えをこの時に起こさせるためである。それに加えて大腸がんは、ほとんどの場合出血が始まったときに初めて発見されるというがんに属している。その際、医者はこの治癒の症状を、がんの症状であると考える。
今我々は、我々がその相関関係をとりわけ進化の歴史的に理解できなかった間、また我々の生物学的な葛藤のプログラム発生のメカニズムを理解できなかった間は、何故我々ががんの発生を決して掴めなかったのかを、また理解できる。そのため我々は無知の中にあって常に、がんは誰も理解できないような「悪性」で無法で無計画に増殖する、制御不能のできごとであろうと考えていた。そのうちのすべてが誤りであった!
それは常に意味深い、第5の生物学的な自然法則「第5の核心」に則した、生物学的な自然の特別プログラムであった。
著作権はリュケ・ゲーアド・ハーマー医学博士に帰する
翻訳:日本語作業チーム