ゲルマニッシエ ハイルクンデ®と歩む道、
2017年まで
ハーマー博士は2003年に彼の発見の名前をゲルマンの新しい医学に変更しました。それには、ここでは細かく説明しませんが、多くの理由がありましたが、いくつかの理由のうちの一つは、1981年と2003年の間に1ダースもの「新しい医学」が発現していたという事実です… 誰かが情報を探そうとすると、「改ざんされていない」出典を見つけることができなくなっていました… とりわけ亡命状態にあったハーマー博士は、彼のルーツであるドイツにより強くひかれる思いを抱いていました… そして、キリスト教に支配される以前の草原に、自然との協調と共鳴の中で生きていた価値観を示唆したく思っていました... その間に、今日いわゆる完全生物学の一派とされるいわゆるメタ医学というものが「据え付けられ」、などなど...ハーマー博士は彼の自伝の中で述べている:「メタ医学は私の敵側から経済的な支援を受けている巨大な機関である。最近、これまで自称大変忠実な新しい医学の信奉者だったはずのフィースリンガー博士が、メタ泥棒を創りあげたのだ。」
2004年にハーマー博士は、今度はフランスの法廷から、「不法な医師としての職業行使における詐欺と共謀」の罪で新たに訴えられ、また彼の居ない欠席裁判で再び拘束刑の判決を下されました。 その結果は欧州逮捕命令であり、2004年9月9日の朝10時、ハーマー博士はスペインの彼の家の前で逮捕され、フランスの刑務所フリューリー メロジーへと連行されました。博士の逮捕の真の理由は、ばかげた、捏造されたぬれぎぬの罪ではなく、そのたった一つの目的は、ゲルマンの新しい医学の評判をおとしめるためでした。
私たちは、再びデモ行進のため路上に繰り出しました。今度はテュービンゲンでしたが、8年前よりもその数は多くなっていました。
金髪の女性は何年かのうちに黒髪のエヴァになっています。
ハーマー博士が刑務所に居る間、私たちは定期的に手紙のやりとりをしていました。この書簡は私にとってはかり知れない価値があります。中でも、ハーマー博士がゲルマニッシエ ハイルクンデ®をポーランドに広めることとの関連で、私の活動について彼の喜びを表現しているからです。
2006年にハーマー博士はフランスの刑務所から釈放され、その直後にはまた完全に活動を再開しました。
7月にはボグスラフと私は、スペインのコインでの、さらに大変興味深い、ハーマー博士との最後のセミナーに参加しました。イタリアからのゲルマニッシエ ハイルクンデの仲間たちは、楽しいオンライン会議を構成しました。 私たちはオーディオとビデオを通じて、視聴覚ホールとイタリアの視聴室とをつなぎました。
そして、2006年9月8日から10日まで、同じ場所でさらなる自然の法則の検証が行われましたが、今回は私たちの独立国際法廷の傘下の団体の支援によるものでした。 ハーマー博士はこの集まりを「科学-ティング」と名付けました。(独立した、自由な科学の上級法廷として)。 これには12名の医師、14名の患者とその家族が参加し、生物学者、物理学者、エンジニア、教育者及び大変大勢の自然療法的な教育を受けた人々が参加しました。しかしまた「大変普通の」人々も参加していました。それら15名の患者のほとんどの症例は、私たちにはまだ知られていないものでした。「治癒」の経過の観察が可能となった、過去の症例についても意見が交わされました。すべての症例は映像化されました。
私は、プレゼンテーション及び検証の後に、ハーマー博士の発見との一致性を確認し、保証する検証委員会のメンバーでした。
写真-左から右へ:ヘルガ・タニア・ゲルゲリュフィ修士、カタリーナ・ドリス・シャムメルト、ハーマー博士、エヴァ・ライメル修士、ミヒャエラ・ヴェルテ、エリカ・ピルハー、ギュデ・テヒョフ医学博士。 |
2006年まで、私はポーランドの様々な都市で会合を組織しました:ダヴィズィノ、コウォブジェグ、ブロンベルク、ダンツィヒ、オッペルン、ブレスラウ、シュテッティン、ルブリン、ワルシャワ、そして最後に私たちは、ブジェスツェーツェに行きつきました...
しかしながらその経験は、ゲルマニッシエ ハイルクンデ®を広めるためには新しいコンセプトを作り出さなくてはならないことを示していました...
2007年に、私たちは(当時すでにブジェスツェーツェで勉強会を率いていた)ゴシアとジュレクと共に、すでに新しい形式となっていた最初のミーティングをブジェスツェーツェで組織しました:何年もかかり何段階もに分割された形のものでした。これが今日の学習プログラムの始まりです。
私たちのスクーリングは、小さな村の警護団の建物で行われました。 ホールは、私たちにとって最適でした。最初にゴシアが甘い清涼飲料水やコーヒーを準備し、それからまたミーティングの参加者もまた何かを持ち寄り...
この間に、ハーマー博士はノルウェーに移っていました。
ドイツではジグマリンゲンで、2008年3月12日にさらなる裁判がありました。ハーマー博士は1986年の判決の執行、つまり、テュービンゲン大学が法廷より要請され、また何年もに渡ってそのままにしていた検証を、遂に行うべきという要求を出していました。
法廷は最初の判決を引っ込め、また最終的にテュービンゲン大学にはそのような検証をする義務はないという決定を下しました。その判決は、私たちが予想していたものでした…
ハーマー博士は、1981年以来、一つの裁判にも勝訴していません。
2009年には、ハーマー博士が2009年11月26日にサンデフィヨルドの警察に提出した、博士の訴追に対する反論としての、さらなる裁判がありました。今度はノルウェーの、サンデフィヨルドで。
苦情は次の機関に対するものでした:
オスロの医師会
サンデフィヨルド地区裁判所
ズィエンの控訴センター
オスロ最高裁判所
2009年4月15日から17日まで行われるはずであったこの審理のために、私は(ハーマー博士と協働して)5つの患者の症例を含んだパワーポイントプレゼンテーションの形で材料を用意しました。ハーマー博士は、法廷において自らプレゼンテーションすることになっていました。私たちは3つのモニターを固定して、ハーマー博士がこの症例を紹介する間、モニターにこのプレゼンテーションが映るようにしました。
1つのモニターは陪審員の前に、2つ目はハーマー博士の前に、そして、3つ目のモニターは反対側からプレゼンテーションを見られるようにです。
審理の2日目になって初めて、ハーマー博士はこの媒体の助けを得て症例を紹介できるはずでした。しかし、判事は1つ目の症例のプレゼンテーションの間に予期せず審理を中断し、そして長い中断の後にさらなる証人喚問をせずに審理を終了したのです…
私たちはこれを無批判に記録することは大変大きなリスクであったのだろうと考えています...すべての証人がこの正確な記録に基いて、説明を聞いてもらえたとすれば、これはある意味で法廷からの認証を付けた検査となってしまう。システムはこれを何としても許可するわけにはいかなかったのです。
2016年、私のサンデフィヨルドの訪問中、私は教授資格申請論文のオリジナルを手にする機会を得ました。それは言葉に表せない、感動の一瞬でした。
最後の活動
2017年2月7日、フランクフルト
職業行使の権利回復に関する公聴会。
博士が、公聴会に自ら出席することができなかったため、私たちち全員が新たに委任状を受領していました。
博士のそばに、ノルウェーに最後に行ったのは2017年の4月でした。彼の顔は、すでに何十年ものシステムに対する戦いによる疲労のかげが見えており、成功への希望のひとかけらも見えませんでした…博士は最後まで戦いました:「私の患者の快復のために」
2017年7月2日、ハーマー博士の精神は彼の肉体から去りました...
彼の発見が公けに認められるための何十年にも渡る戦い、彼の敵からの追撃、強欲な権力が彼の知的財産を食い物としたこと、そしてまた彼の自称「友人たち」の不誠実が、そもそも彼の下降の原因でした…
ゲルマニッシエ ハイルクンデ®はただ医学的な観点のみを有しているのではありません!人がそれを実際に理解すれば、その複雑系の中にその真の意味を理解するはずです...ゲルマニッシエ ハイルクンデはそれがただ自由な社会においてのみ生かされるという、大変強い政治的な観点を内包しています...
現在、私たちができることはただ一つです: ゲルマニッシエ ハイルクンデ®の知識をそのオリジナルのまま広めるということ。 重要なことは、ゲルマニッシエ ハイルクンデ®がその明らかで、改ざんされない形で、来るべき世代に保持され続けること。
誰でもこの知識を所有できる!
しかしその知識は取り立て債務と同様!
…人はそれを得たいという意思を持たなくてはならない…