ゲルマニッシェ ハイルクンデ®への導入

リュケ・ゲーアド・ハーマー医学博士

投薬
逆症療法 - ホメオパシー - 代替医療

薬は間違った形で現代医学の進歩、あるいは人がそれについて進歩と考えているものを象徴している。多くの患者さんたちが、あらゆる目的のために、あるいはまたそれに抗するために、毎日10か20の様々な種類の薬をもらっている。薬を処方しない医者は、まともな医者とは言えない。薬がより高額であればあるほど、彼らはより立派な医者のように見える。それは全くのはったりであった!それに関して最も愚かであったのは、薬が局所的に作用し、脳は全く関係がないと吹聴されて、人が常にそれを信じたことである!毒あるいは、薬の口腔からの服用における腸の局所的な反応を除けば、実際一つの薬も器官に直接作用するものは無いのである。

その他すべての薬は脳に作用し、またその「効能」は、実際脳ひいてはその様々な部分の中毒が、器官のレベルに作用するというその効果である。真の麻薬、麻酔薬及び精神安定剤を除外してみれば、薬は次の2つの大きなグループに分けられる:

  1. 交感神経系緊張薬 – ストレスを強める、
  2. 迷走神経系緊張薬 – 休養あるいは療養の相を支援する。.

第1のグループには、アドレナリン及びノルアドレナリン、コーチゾン及びハイドロコーチゾン、またカフェイン、ティーイン、ペニシリンやジギタリスといった、さらにその他多くの様々な薬のようなものが含まれる。基本的に何か良いことではあるが、多すぎると複雑化となるような、迷走神経系の効果を和らげ、それによりまた脳内水腫を減少させようとするとき、人は実際それらすべてを採用できる。

2番目のグループには、迷走神経系をより強める、あるいは交感神経系を弱めるすべての鎮静剤及び痙攣を鎮める薬が含まれる。その多様性の理由は、それらが脳の中でまた様々に作用するためである。

例えばペニシリンは、交感神経系の細胞分裂阻止剤である。それらが大脳髄床の水腫に与える作用に対して、それがバクテリアに対して持っているその作用は、さして意味を持たず付随的なことである。そのため人はそれを pcl-相における大脳髄床の水腫を和らげるために投与することができる。それに対してコーチゾンはその他の脳の範囲において、より重要である。

しかし、そのためにペニシリンとその他のいわゆる抗生物質の発見が軽視されるべきではない。ただ、この発見は全く間違った予測と想像の元でなされた。人はバクテリアの崩壊生成物が毒物として作用し、発熱に作用していると想像した。さて人は悪い毒物を避けるために、ただ悪い小さなバクテリアを殺すべきであると考えた。それが間違いであった!当然そのような作用においてはまた我々の勤勉な友達たちである、バクテリアも一緒に被害を被り、一時的に排除されるが、その際彼らの仕事はーあまりドラマチックでない経過として-後の時点に先送りされた状態となる。

人はともかく、自然の意味深い治癒の過程を治療しようという場合には、一体どれだけの意味があるのだろうかと自ら問わねばならないであろう。

そのためゲルマニッシェ ハイルクンデ®の医者は、彼がまた多くの母なる自然の経過はすでに最適化されており、大方の症例では支援するための投薬的な治療は必要ないという前提に立つとき、薬に敵対しているわけではない。葛藤の継続がより短い場合、またそれによって葛藤量がより少ない場合は、通常治癒相において特に複雑化が予測されない。しかしまだ自然界では死に至るような、我々が医師的な倫理から特に手当てしなければならない特別な症例が残る。それでもなお、我々は将来にもまだ患者を失うであろう。しかし我々には現在、次に我々を待ち受けているものをすでに事前に知っているという利点がある。

つまり我々が肺炎を現在 気管支がんと呼ぶことによって、肺炎の頻度が下がったとしても、我々はその「病気」をただラベル替えしただけであるため、患者が今度は気管支がんで死んだのでは何の役にも立たなかったが、しかし人が肺炎(気管支がんの治癒相)の葛藤(縄張りの不安)が、3ケ月しか継続しなかったことを知っている時、我々は肺炎の消散(癲癇性の危機=EK)で、人が医薬的に全く何もしなかったとしても、一般的に死には至らないであろうことを知っている。しかし医師はその葛藤が9か月、あるいはそれ以上継続した場合には、人が何もしない場合、ここでは肺炎の癲癇性の危機(肺の炎症)が生と死の問題であることを認識している。

この症例では、例えば人は早くから交感神経系緊張薬を与えるが、しかしまたこれまで行わなかったことであるが、つまり癲癇性の危機の最中すぐに、追加的にまた大量のコーチゾンを投薬し、それは常にEKの後に起こる危機的な時点を乗り越えるためである。

また、新しいDHSあるいは再発の症例においては、つまり患者が再び交感神経緊張系である場合、論理的にまたその帰結として、コーチゾンが直ちに反対症状となることが起きる。とりわけコーチゾンは一度にやめることを許されず、数日間あるいは数週間をかけて「次第に減らす」ようにする。患者がさらにコーチゾンを服用し続けると、重要なポイントで葛藤の強度をさらに高めることになる。

それでも患者に鎮静剤を与えることは、その時点でもまた間違いであるのだが、それはすべての種類の鎮静剤は、ただその像を隠し、強烈で活発な葛藤からあまり劇的でないひっかかった葛藤にさせ、また患者はいつでもさらなる葛藤を通して、精神分裂的脳内配置に陥る恐れがあるという危険を、その中に隠蔽しているためである。

ある患者に、例えば狭心症の症状がある場合、次のようである:「はい、β(ベータ)遮断薬を与えなくてはなりません。狭心症が起こらなくなるように、彼は鎮静剤を飲まなければなりません」。しかし実際には、自然はそれによって葛藤(縄張りの葛藤)が解決されるようにその症状を設定したのであり、それによってどこかの医師あるいは代替医療師が対処して、症状に作用し消失させるために設定したのではない。そして人がより多く症状に関してドクターしまくると、患者は彼の葛藤を解決するためのきっかけが益々見えにくくなる。その患者がすでに彼の葛藤について全く本能的な感覚を持たなくなっている場合は上記の限りではないが。そうではなく、人は通常常に患者の葛藤の解決を助けるべきであり、そうすれば彼は-薬を投与してもしなくても-瞬間的に狭心症がなくなるのである。原因的にでなく、常に対症療法的に作業しなくてはならないと考えることは、全く無意味である。

さらに、患者はそれで助かったわけではない。全く反対で、それは大変危険でさえある。何故なら患者が彼の縄張りの葛藤を後に何かの周辺状況で自然に解決してしまい、しかしその葛藤が9ケ月以上活発な状態が続いていた場合、その患者は癲癇性の危機において、心筋梗塞で死んでしまうためである。人はその葛藤を解決しても良いのかどうか、あるいは本能的に動物がする(2番目の狼)ように、縄張りの葛藤を下位に引き下げはするが、しかし命の尽きるまでそれを解決しないということが、おそらくより意味深いのかどうかを、基本的に注意深く考量しなければならない。

同様に、すべて可能な体のパラメータを通してその他の相と根本的に区別され得るある相において、つまり全く相反する状態であるが、同一の薬が「効く」ことは有り得ないということが、すでに明白である。そもそも人は質問しなければならない:「それでは一体、それは葛藤が活発な相において効くのですか、それとも迷走神経系の治癒相において効くのですか?」と。しかしそのことはこれまですべての薬において、まだ一度も考慮されていなかった。そして、多くの生物学的な葛藤の数々が同時に、またおそらくさらにまた様々な相として経過しているときには、すべてのことごとが自然に即して益々複雑になる。

例えば痛風では:活発な集合管の葛藤、つまりある生存の/さすらいの葛藤と、また自己価値喪失の葛藤の治癒相である白血病であり、-あるいは拒食症では、2つの活発な葛藤と胃潰瘍との組み合わせである。

それではどの薬が、丸薬、点滴薬あるは粉薬が一体どのように、どこにそして何について効くのか?おそらくそれはたまたま一つか二つの症状を消すことができるが、しかし真の投薬的な効果、あるいはさらに治癒とまでは、決してお話しにならないであろう。

同様に高血圧では、人はそれをなるほど人工的に薬で下げることができるが、それにはしかし、例えば液体の葛藤の際、葛藤が活発な相において腎臓組織の中に壊疽により形成された穴を、それにより充分に尿と尿素が排泄されることができるように、機能的に代替するという意味がある。しかしながら、葛藤が活発である間は、血圧は高いままで留まる。まず葛藤の解決と治癒相におけるのう胞の形成を伴って初めて、血圧が再びひとりでに下がり、また長い葛藤の経過においてでさえ、年齢に相応の値にまで下がるが-またこのすべては薬無しで起こるのである。

またすべてのpcl‐相において、その症状が完全な治癒により消えたのか、あるいは新たな再発により、同様にあたかも回復のようにふるまっているのかを知ることが重要である。そのような治癒相において細胞毒(化学療法)を投与する似非治療は、ここにおいて不当な形で症状的な「数々の成功例l」として記録されるが、それは彼らが意味深い治癒の症状を、有機体全体に重篤な中毒を背負い込ませることと引き換えに、無意味にも停止させることであった。

しかしまたすべてのいわゆる代替的な手法は、対症療法医学と共通点を持っている-彼らがホメオパシー的に処方しようが逆症療法的に処方しようが、つまり多くの物質を与える、あるいはより少ない物質を与える-ミューズリーを与える、あるいはひいらぎ、酸素、マクロビオティック、あるいはバッチフラワー、あるいはその他あらゆる可能なものを与える、ー彼らが吹聴して言うのには、すべての薬は症状的に効くはずであるとする。実際にはたった一つ効くものは、脳を介してであり、そしてそれを後退させるようにである。

次のような議論がある:「ハーマーさん、しかしながらあなたは精神を全く計測できません、あるいはバッチフラワーに対して何か敵対心を持っているのですか、でもそれらは精神に作用するのですよ.....」。それについて私はただ次のように言えるだけである:当然私は精神を計測することはできない。それでも私は、人間がある種の葛藤において、それは精神的な過程であるのだが、脳内のある一定の位置に相応の病巣があり、また器官にも相応の変化が起きていることを理解している。それをもって私は、精神をそれに応じて区画分けしたのである。私はそれらを量的に計測する必要が無く、しかし私はそれらを自然科学的に証明することができる。

そして当然またいわゆるプラシーボ効果がある。人が患者にある薬を「うまく売りつけ」た時、ただそれだけですでに80%まで効く。すなわち、その物質がそこで何等かの効果があるのではなく、ただ人々がそれを信じることによる。また親切な人が患者に何か良いことをすると、その際我々がその手順をどのように名付けようが関係なく、それも同様に効く。

我々の間違いは我々が常に、例えば医薬的に大きな処方量で、あるいはたった一つの分子であろうと、何かしなければならないと考えていたところにあった。しかしながらそこで我々は、病気の動物においてはー全く何らの薬も無しでー症例の80~90%は自然治癒が起きるのを観察する。

さらにそれに加えて、また一度は人はいかにして、例えば何らかの手段で葛藤を解決できるのだろうかという質問が許されるであろうし、それがそもそもできるのであれば、我々が現在認識しているように、そこが最も重要な要件である。我々は一体全体どのように、何らかの事象によって、意味深い自然の特別プログラムを生成できるのであろうか。できたのであれば、ただちにそのような物質を見せてもらいたいものである。しかし我々はそれをできないし、そんな物は無いのである。さてある種の物質、例えば咳止め用服用液が、ひょっとして治癒相を支援する効果(鎮静)のみを持っていたとしても、治癒相は葛藤の解決の開始からすでに起きていたため、決してこれまでの間違って言われていた理解での治癒効果ではない。

ゲルマニッシェ ハイルクンデ®は、ただ例えば葛藤の解決だけに留まり、複雑化を別の診療科に委譲できるような部分的な診療科ではなく、それは病気で経過する精神、脳そして器官のレベルにおけるすべての行程に注視しなければならない総合的な医学である。

ゲルマニッシェ ハイルクンデ®の医師はさらに、総合的に教育された者として、人間的な「医学の犯罪調査者」の資格を有することを要求される。何故なら将来の治療の構成は、薬を与えることは最も少なくなり、患者の生物学的な葛藤と彼のいわゆる病気の原因を理解することを学び、彼のドクターと一緒にこの葛藤から抜け出す、あるいは将来もうつまづかないために最良の道を見つけるということが最も多くなるためである。自明の事ながら、そのような医師は、ただ-それが必要不可欠な時、例えば自然的な治癒の経過で起きる複雑化を避けるために、また彼がこれを自分自身にも適用するであろう時に-、投薬的にも、手術的な方法でも、すべての役に立つ手段を患者に適用するであろう。

ゲルマニッシェ ハイルクンデ®はそれ自体完結したものであり、5つの生物学的な自然法則に基くもので、全く一つの仮説も含まない。そしてそれは  1998 年の9月8日、9日にトゥルナヴァ大学(スロバキア)より正当性が証明され、1998年9月11日には書面をもって正式に承認された。さて我々が何かを取り入れようとする場合、それはゲルマニッシェ ハイルクンデ®のこれら5つの自然法則と調和していなくてはならない。

しかしいまだに、例えば我々が薬をもって免疫システムを強めることができると考える人々がいる間は、私はただその人々はゲルマニッシェ ハイルクンデ®を理解していないと言えるだけである。

代替医療を含めて、これまでの現代医学にすべて「成功症例」がある。人は薬の選定がより正しくうまくいけば、これらの成功症例の数はより大きくなるであろうと宣伝してきた。しかしその成功例を働き出した者は、医師でも自然医師でも自然療法士あるいはその他の治療師でもなく、第一に患者自身であった。同様に彼は自身で失敗をプログラムすることもあるが、それでも成功も失敗も常に強制的にゲルマニッシェ ハイルクンデ®の5つの生物学的な自然法則に則って経過するのである。

著作権はリュケ・ゲーアド・ハーマー医学博士に帰する

翻訳:日本語作業チーム