ゲルマニッシェ ハイルクンデ®への導入

リュケ・ゲーアド・ハーマー医学博士

動物実験 - 我らの時代全体の恥

動物の友、ハーマー: 彼は4匹の犬を飼っており、馬が大好きだ。

動物の言語を理解したいという人類の欲求は、途方もなく古い。古来から我々は、ヒッタイト人、インド人、ギリシャ人そしてゲルマン人の宗教から、彼らが広範に渡って動物たちと大変内的な関係を持っていたこと、例えば彼らの馬たちを、まさに友だちのように見ていたことを知っている。

それはイスラム教とキリスト教が優勢になったとき、根本的に変わった。彼らの動物への軽蔑が、すべての動物との対話を終わりにし、またすべての動物(と植物も)を人が搾取し売り飛ばせる、真に商売の品目へと格下げした。人間はそれによって粗暴になり、貧しくなった。我らの動物たちとの対話は引き裂かれたのである。

その代わりに、動物にはただそのばかりでなく、またその言語も無いものとされたのである。しかしながらすべての犬好きは、例えばある犬がその体全体で話すことを、そしてまた彼らの仲間からは理解されていることを知っている。彼は尻尾を高く上げたり、低くしたり、また尻尾を振ることで、尻尾で話し、彼はその毛皮で、それを逆立たせたりして、また身振りで、目で、歯をむくことで、あるいは耳を下げる、また彼は儀礼的な動作で話しをする:例えば大変強い敵には自身を投げ出し、相手に喉元を噛ませるように提供する。当然我々は「言語」のこの部分は聞くことができないが、それでも犬はそれらによって話しているのである。

そしてそのようにすべての動物はお互いに彼らの特別なやり方に則して行っている。それは彼らが異なった言語を持っているためであり、彼らが我々より頭が悪いのではなく、彼らはただ異なっているだけである。「いや」、「動物たちは全く痛みを感じない、ただ本能から叫んでいるだけで、すべてはただ条件反射に過ぎないのだ。そのため、人は彼らがもう叫べないように、心配してあげているのだ。」と、動物の敵たちは言うであろうが、しかしまた音無しの拷問においても-動物実験の数々において-我々の同志である、動物たちは叫んでいるのである。

発がん性物質を扱う統計は、通常動物実験を行うことにより作成される。その際実験動物は、精神と知能が無いものとされた。実際にはしかし、彼らの多くのいわゆる生物学的な葛藤を伴う精神は、人間と哺乳動物における「病気」の発生への入り口である。

ある長年に渡る大規模な実験で、何千ものゴールデンハムスターが生涯に渡ってたばこの煙にさらされ、比較対象動物は煙にさらされなかった。人は、1匹の動物も層状扁平上皮の気管支がんに罹らず、肺の丸い病巣のがんにも罹らず、さらに煙にさらされたゴールデンハムスターの方が、煙にさらされなかった比較対象動物たちよりも明らかに長く生きたことを確認した。しかしながらその結果は黙殺され、あるいは相対的なものとされた:そこで人は実験用ねずみ(家ねずみの子孫)をたばこの煙にさらさせ、その際いくらかの少数の動物で肺の丸い病巣を見出したが、それはつまり肺胞のがんであり、人と哺乳動物が死の恐怖の葛藤の際に罹患するものである。すると人はすぐに言った:「そうです、もちろん喫煙は、気管支がんがなくても、しかし肺がんは起こすのです。」それ以来、人は喫煙との関連性について決して気管支がん(表中:赤.右.a.2)ではなく、常に肺がんを話題にした(表中:黄.13)。これほど完璧に、人は統計的に嘘をつける!

これについて特筆すべきは、以下のことである:動物たちは、同様に我々人間のような精神を持っている。ゴールデンハムスターは地表の下の穴の中に住んでいて、煙が彼にその生活圏内において通常何もしないため、煙では興奮せず、彼はつまりパニックコードを発達させなかったのである。しかし1匹のねずみが火事の匂い、あるいはたばこの煙に興奮する可能性は充分にある。昔は小屋裏が火事になると、まだ人が何かに気付くより前に、すべてのねずみが電光石火のごとく家から走り去った。

ねずみたちは 火事の匂いには敏感な鼻と生まれつきのパニックコードを持ち、彼らはつまり煙にさらすことにより、充分DHS(葛藤のショック)つまり:肺胞のがん(表中:黄.13)を伴う、死の恐怖の葛藤に陥る可能性がある。

その他の例:アメリカの研究者たちはラットに、その最も敏感な器官である鼻に、消毒に用いられそして通常動物たちが大きく避けて通る、ホルムアルデヒドの溶液を、1000倍の濃縮で1年間、日に何度も鼻の中に噴霧した。その中の最もひどく苦しめられた何匹かの哀れな動物は、明らかにこの手順においてDHSに襲われ、鼻腔粘膜がん(表中:赤.右.+左.a.11)に発展した。研究の結果:ホルムアルデヒドは発がん性物質である。人が被験者に同様に1年間毎日何度も、う??を鼻の中に噴霧したとすれば、人はまた人間での実験でも同様の効果を起こさせることができるであろうが、そこから人は当然厳しく、う??は発がん性物質であるという結果を導き出すべきであろう!この実験が残念ながらホルムアルデヒド大衆ヒステリーを伴って、数十億という影響につながったことは、まだ記憶に新しい。しかし哀れなラットたちがその物質が嫌いだったために、そして彼らがそのためDHSを伴って鼻腔粘膜がんに罹患したことについては、誰一人として思い至らなかった。

いわゆる現代医学における認識は、これまで常にただ統計的にのみ得られた。事実因子が合算されている間は、統計は正しいものである。しかし様々な列の 事実因子が統計的にその原因としてつなぎ合わされれば、そこでは物事は不正確である。

例:コーカサスの羊飼いはあまりがんに罹らない。コーカサスの羊飼いたちは羊乳のチーズをたくさん食べる。統計的な演繹:羊乳のチーズは抗がん性物質であり、がんを防ぐ。(ハイデルベルク/マンハイム大学のがん予防の教授局からの科学論文)。当然ゲルマニッシェ ハイルクンデ®(当初は新しい医学と呼ばれた)の観点からの統計というものは、これまで全くない。あったとすればこの関連で、人が真っ向からさらにナイフの切れ味で証明できるような、全く異なった説明となったであろう。

動物と人間の精神を比較しようとする場合、人は我々の大きなコンピュータである脳の中に、様々な生活の状況のための大変様々な葛藤の数々がコード化されていることを想像しなくてはならない。我々が人間を車に乗せると、彼はそこで居心地が良いが、我々が鷲を車に閉じ込めると、鷲は人間を鷲の巣に置いたときに感じるであろうような、死の恐怖を得る。つまり、死の恐怖は結果として互いに比較可能であるが、しかしそれは様々な生き物において大変様々な生活の状態なのである。そこから結果として得られるのは、ある起こり得る葛藤の状態を判定するためには、個別の独自性とそれぞれの生き物の精神が考慮されなくてはならないということである。

人が100匹の乳がん(表中:オレンジ.右.+左.a.4)に罹患しているメスのダックスフントにおいて、また100人の乳がん(表中:オレンジ.右+左.a.4) に罹患している人間の女性において、同様に、肺のCT写真を撮影すると、その際人は診断の日には両方の対象数で肺の丸い病巣のがんが無いことを見出す。2ケ月後人は大変多くの人間の女性において、診断のひどさに応じて、肺の丸い病巣のせん様がん(表中:黄.13)を見出す。それに反してメス犬たちにおいては、全く一例もない。これらは運良く診断を理解することができなかったのであり、そしてそのためにパニックに陥らず、すなわち:2番目のがんに罹らなかった。2番目の葛藤ということの意味は、人間は診断において(医術的に)パニックにさらされ、そしてその際新しい生物学的な葛藤を伴うDHSに襲われたということである。以前我々は、この新しいがんを全くの無知から「転移」と呼んだ。しかし我々の医師あるいは腫瘍学者たちは、動物がほとんど決して「転移」に陥らないことについて、何かを考えるには至らなかった。

動物がこれらほとんどの生物学的な葛藤を依然として現実的に感じることを、我々人間はしばしば転換した意味で感じる。動物にとって、飲み下すことができない獲物であれば、それは実際に一塊の食物である。それに対して人間においては、それはまた1000マルク札であるとか、当選した宝くじであるかも知れない。この生物学的な葛藤は、考古学的な葛藤として、ただ発展の歴史的に理解するべきもので、人間と哺乳動物においては基本的に相似的関係である。

それは、我々人間が犬と、馬あるいは牛と繋がっていると感じ、我々が彼らとコミュニケーションが取れるし、また彼らを「ほとんど人間のようだ」として感じることを我々に示す。そのように我々は、我々人間のパートナーあるいは我々のパートナーである犬が死んだときに、また同様の喪失の葛藤を病む。例えばまだ若い犬が病気になると、その際人間の女性はまた「母子の心配の葛藤」を、右ききの女性の場合には左の胸に乳がんを伴って受け止める。逆に動物も全く同様に、生物学的な葛藤を我々人間に係ってパートナー等々として感じているのである。

葛藤内容の知識は、遂に人間と動物の間の関係の新しい時代を開くであろうと、そのように私は期待している;動物を物として考える、恐ろしいことから離れ、多くの希少種の撲滅や、人類全体の恥辱である全く不必要な動物実験を見出した愚の骨頂から離れる。今日行われているすべての動物実験は、人が動物の精神を存在しないものと考えたため、ただ無意味な動物虐待である。

新しい時代には、いわゆる生態行動研究がより大きな意味を獲得する。我々にとってこれまで全く理解不能になってしまっていたことがらが、ますます多く再び理解できるようになる。その際我々は、否応なしに共に創造された者たちである動物たちと共に、コミュニケーションを取らなくてはならない。しかし、我々がただ本能と生態行動のみを話題にしている間は、そして動物に我々自身のような、類似の心があると認めない間は、ものごとは不完全なままとなる。それを認めて初めて、我々は真に彼らとコミュニケーションが取れるであろう。

このコミュニケーションの試みの最大の欠点は、常に我々が動物の言語を理解できなかったことにある。しかしながら、我々が動物たちと共通に持っている、つまり我々の脳の「動物種間の生物学的な言語」がある。我々は基本的にコンピュータ断層写真で、すべての馬とすべてのねずみと「会話する」ことができる。何故ならその脳における言語は、要するに動物腫間の言語であり、脳内の不安や葛藤の位置決定の観点からも、脳内の変化の観点からも、人間と哺乳動物で同様であるためである。

すべてこれらの物事は、我々の脳の中で驚異的に事前プログラムされており、また我々の共に創造されたものたち、動物たちの脳と我々の脳と共に同様にネットワーク化されている。同様のことが動物と植物にも言える。我々はこの相関関係を生物学的な平衡と呼び、人類が神への反逆に陥りそれを破壊するまでは、何百万年もの間素晴らしく存在してきたものである。人類はそもそも地上のすべての生き物の中でたった一種、舵取りがきかなくなったものであり、またこの素晴らしい創造物を破壊したものである。そこではシラ―の一節が思い浮かぶ:

ライオンを起こすのは危険だ、トラの牙には敵わない、しかし怖いものの中で最もひどいのは、気の狂った人間だ。

私はここで、動物実験が後にはいつか我々の時代全体の恥となり、また我々の言葉にできないほどの愚かさの証拠として見られるであろうと、予測を立てておこう。

 

著作権はリュケ・ゲーアド・ハーマー医学博士に帰する

翻訳:日本語作業チーム